2009年9月20日

 「キリストにある希望」 コリント書第二 5:17〜21

 使徒パウロはキリストの福音を伝えるために熱心に神に仕えた人でした。「希望」は若者に与えられた特権と言われることがありますが、パウロは年齢によらず最後まで希望に満ちキリストにある希望に生きた人でした。

 @希望の源は神にあります。(ローマ15:13)「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」榎本保郎先生が、試練の中で最大のものは、「なぜ自分は一生懸命信仰生活をしているのに、信仰していない者と違いがないのだろうか?」と思うことと言い、「けれどもそこで、いややがてがあるのだと信ずることである。忍耐とはやがてがあるんだという信仰である。やがての決算の時があるという確信がなければ、信仰生活を全うすることはできない。」と言っておられます。

 A神の希望は人の望みの尽きたところに与えられ、忍耐力を生じる。今、社会に必要なものは「希望」であると言われています。試練に耐えさせる希望は信じる信仰によって与えられます。(ローマ5:3)「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

 Bキリストにある希望は死が命に飲み込まれること。キリストの十字架の死は罪の裁きであり、復活は霊の死からの救いを意味します。キリストにある救いは神の恵みであり、体の贖いは私たちの希望です。(2コリント5:4)「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住家を上に着たいからです。」死に直面した時、人間が人間に与えられる希望などないと言います。死は絶望につながりますが、信仰により死は希望へとつながるようになります。キリストと結ばれる人はだれでも新しく創造された者なのです。(5:17)