2009年9月13日

 「招かれて」 ルカによる福音書14:15〜24

 「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。」

 私は時々パーティやお祝いに招かれることがあります。晴れがましい場であればあるほど自分が場違いな所にいるように感じるのですが、それでも不遜なことに、自分は呼ばれて当然と思うことがあります。律法学者やファリサイ派の人々は、「義人はその信仰によって生きる。(ハバクク2:4)」とある言葉通り、自らを義人と疑わず復活の宴会リストに自分たちは当然入っていると信じていました。しかし、神の招きのリストには「自分の行いによって自分を正当化する人々」ではなく、「自分は招待にも値しないと自認する人々」が記されているようです。

 使徒パウロによると、救いは「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。(ローマ3:24)」とあるように100%「恩寵(神の憐れみ、慈しみ、恵み)」によります。自分の功績による救いの道は1%もありません。主は言われました。「宴会を催す場合には貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい。そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう。(14:13)」

 「狭い戸口から入るように努めなさい。(13:24)」それは、恵みによる救いの戸口、ただイエス様を通して与えられる救いの門だと私は思います。たとえ話の宴会の主人は、招いた人々が断ったことに腹を立て、返礼のできない人々を招くよう僕に言いつけ、それでも席があまった所には無理にでも人々を連れて来るよう命令しました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)」神は腹を立てるほどに一人の人も滅びることがないようキリストにある救いへに招待しておられます。