2009年8月23日

 「安心して」 ヨハネによる福音書16:25〜33

 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 もうすぐ夏休みが終わり、子どもたちは学校生活に戻っていきます。宿題を済ませた子とまだ済ませていない子では残りの日々のすごし方が違います。私は後者の方でしたので、夏休みを満喫し、最後に(地獄の?)苦しみを味わう子の気持ちがよくわかります。でも、わかっているのに毎年同じことを繰り返したものです。

 十字架の苦難を前にして、イエス様は弟子たちに互いに足を洗い合う模範を示されました。そして、別れの言葉を語られました。イエス様ほどどんな時にも安心しておられ、人に対して安心を与える方はおられないと思います。イエス様は神の子だから当然のことだと思ってしまいますが、そうではありません。イエス様の安心は父なる神との日々の交わりによって築かれた信頼関係にありました。しかし、そのイエス様のゲツセマネでの祈りは汗が血の滴るように落ちる祈りでした。そして、十字架の上では「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫される祈りでした。ヘブライ書は語ります。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。(5:7)」イエス様は命の宿題を先延ばしにしてしまう人間の弱さをよくご存知で、そんな私たちの為に死んで下さいました。そのイエス様が与えて下さる安心は世のものではありません。

 「あなたがたには世で苦難がある」 世の苦難は否定できません。人間はずっと頑張って苦難と闘ってきましたし、闘うことに意味と価値を見出して来ました。でも、イエス様が来られた時、世界は一変しました。「弱音を吐いてもいい」世界が開かれたのです。「安心して」苦しみ悩み、そして立ち上がれる場所ができたのです。

 「わたしは既に世に勝っている」 私たちに代わって罪の清算をして下さったイエス様は私たちの最後の宿題「死」に勝利して下さいました。「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。(1ヨハネ5:4)」 イエス様が語られた全ての言葉は、イエス様によって安心を得るためです。