2009年8月2日

 「自分を愛するように」 ルカによる福音書10:25〜38

 最近のニュースでは、求人倍率や失業者数が過去最高になったと報じています。経済状況の悪化は社会に色々な影を落とすことにもなります。イエス様が語られた善いサマリア人のたとえ話しの背景には、当時ローマ帝国に支配されていたユダヤの民の重税による苦しみ、ヘロデ王による宮の修復工事の終了にともなう四万人にも及ぶ人夫の解雇による失業問題がありました。そのためか各地で強盗などの犯罪が多発していたようです。ゆえに、神殿に仕える祭司やレビ人のエリコから神殿のあるエルサレムへの27Km、高低差1000mという険しい道のりの行き来は危険の代名詞となっていました。

 「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」 永遠の命を受け継ぐための秘訣は「敵を愛し、あなたがたを憎むものに親切にしなさい。(ルカ6:27)」とのイエス様の教えと何ら矛盾することはありません。しかし、律法の専門家の問題は自己正当化でした。決まり事を守っていればそれで良いと思って他者への配慮が欠けていることでした。善いサマリア人のたとえは、私たちの隣人への配慮の足りなさを明らかにします。自分も同じような出来事に遭遇する可能性があるにもかかわらず、困難に直面する人に向って私たちは「迷惑だ」「巻き込まれたくない」「関係ない」などとさまざまな言い訳をしてしまいます。

 強盗に襲われた旅人を見て、祭司もレビ人も道の向こう側を通って行きました。彼らは自分の立場にしか立てず、明日のわが身であるかも知れない旅人の立場に立てなかったのです。実は私も偉いことは言えません。自分が損するような出来事に遭遇したら私も祭司やレビ人と同じ態度をとってしまうかもしれない弱い人間だからです。しかし、イエス様は皮肉にも律法の専門家たちの敵とされていたサマリア人が彼らにさえできなかった隣人への思いやりを表す人としてたとえられました。

 「だれが追いはぎに教われた人の隣人になったと思うか。」イエス様の問いは私たちに、愛の足りなさと、神に敵対している存在である私たちに神ご自身が隣人となってくださっていることを気付かせる問いかけです。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。・・(2コリント13:4) 神は私たちより先に私たちのことを心配し、愛して下さっています。