2009年7月26日

「主の約束」 イザヤ書38:1〜15

 最近、46年ぶりに皆既日食が日本でも観測されました。大昔は不吉な現象と言われ人々を不安に落としいれましたが、その理屈が分かって来ると皆楽しみにして待つようになりました。「運命は冷たいが摂理は温かい。」と言う言葉があります。「運命」というと人の意思にかかわらず身の上に起こってしまうことで、不幸な出来事であればあるほど人にとっては一応の納得を与える言葉のように思えます。しかし、「摂理」は神の意思にかかわっています。摂理は温かいと手放しで言うほど現実は簡単ではありませんが、「信仰」は神の意思の暖かさを後に伝えます。

 栄華を極めた王国が分裂し、北王国イスラエルがアッシリアに滅ぼされた時、南王国ユダも存亡の危機に直面しました。紀元前701年頃ユダの王ヒゼキヤは、アッシリアの王センナケリブより降伏を迫られました。圧倒的な軍隊を率いるラブ・シャケの脅迫の言葉は「お前は何を頼りとしているのか?」という問いかけでした。追い詰められ、しかも死の病にあったヒゼキヤが向ったのは預言者イザヤのところでした。そこで、神の約束はただ一つ「恐れてはならない。わたしがこの都を守り抜いて救う。」ということでした。そして、驚くべきことにその言葉通りアッシリア軍は主の御使いにより滅ぼされ、逃れたセンナケリブも自らの息子に殺されてしまいました。

 私達の日々の生活もセンナケリブほどではないにしても、辛いこと苦しいことがあります。どうにも説明のつかない出来事に降伏してしまうこともあります。そして、運命と自分に言い聞かせて安心したいところがあります。しかし、彼と彼の国の命を救ったのは神の約束でした。その約束のしるしをイザヤはセンナケリブに選ばせます。日時計の影を十度進ませるか、後戻りさせるというものです。センナケリブの選択は難しいと思われる後戻りさせることでした。

 イエス様はマタイ9章にて、中風の人を癒す時、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される。」と言われました。「罪は赦される」と言うのと「起きて歩け」と言うのとどちらが易しいかとイエス様はつまずく律法学者に問われました。そして、罪を赦す権威のある方は病を癒す力があることもお示しになりました。「あなたはわたしの罪をすべてあなたの後ろに投げ捨ててくださった。」と讃美したセンナケリブのように、どんな窮地に陥った時でも、過去の罪も全ての罪もキリスト・イエスにあって赦してくださる神の約束に立って神の子と変えられ続ける者でありたいと願います。