2009年7月19日

「伝わること」 テトスへの手紙2:11〜15

 あるテレビ番組で「ご近所の底力」というのがあります。それは、地域に起こる問題を皆で考え、うまく対応している人々の例を取り上げたり、専門家の意見を聞いたりして解決への道を探る番組です。本当に私たちが生きていくことには問題が尽きません。また、私たちには地域における共通の問題と共に、個人的な、人とは分かち合えないような深い問題も数多くあると思います。ドア一つ隔てて、様々な問題を私たちは抱えながら生きています。

 空っぽの墓から始まったイエス・キリストの福音は、ギリシャ、ローマを越え、地中海に浮かぶクレタ島(百の町の島と呼ばれた)に及びました。テトスの役割はその島で、教会の秩序を整え、町ごとに長老、監督といったリーダーを立てることでした。パウロは、長老や監督について人から非難されされる点がなく清廉潔白な人を立てるようにと勧めています。しかし、その条件に叶う人がいたのでしょうか?現代の教会でも問われることです。「執事/役員と牧師の協働」の中で、執事は「もともと資格なき者が主にゆるされ、選ばれ召されているのです。

 その恵みを感謝しつつ、自らの弱さや欠けを知って、少しでも聖書の基準にそえるように祈りつつ奉仕していくのです。牧師同様、執事も『あるべき姿を目指しつつ』常に成長の途上にあります。同時にそのことを踏まえて、常に相互に自己訓練を心がけたいものです。」と語られています。執事は単なる「不平不満まとめ役」「信徒の利益代表」でもないと言います。健全な教えに適う生き方は牧師、執事役員だけでなく信じる者すべてにとってチャレンジなことです。世の中は驚くほど誘惑に満ち、不健全な教えに満ち、人間の罪の本質に迫る問題を抱えています。

 「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。」(2:11)とパウロは宣言します。キリストの十字架の死による罪の赦しには、私たちをあらゆる不法(神に背き罪に屈服させられている行為)から救い出すと同時に、あきらめないで『あるべき姿を目指しつつ』歩む者を清める力があるのです。私たちのご近所に、イエスの救いの福音が伝わることを願って、祈り、証して行きたいと願っています。