2009年7月12日

 「信仰の戦い」 士師記7:1〜8

 神はギデオンに圧倒的な勝利を与えてくださいました。今日はどのような300人が主に選ばれたのかを学んで行きたいと思います。私たちは人数が多ければ何かできると思いますが、神は純粋に神と繋がる者を用いて偉大なみわざをなします。

 神様は2度のテストを通して戦争に参加する者とそうでない者を篩い分けます。始めに「3節 恐れおののくものはみな帰りなさい。」この一言により半分以上の2万2千人が帰りました。どのような気持ちで、彼らが集まったか分かりませんが、「あの人が戦うなら戦う、行かないと示しがつかない・この戦いに参加しなければ面子が立たない」と言う気持ちのものを無理に戦わせる事はありませんでした。

 私たちの信仰の戦いは個人で戦わなければなりません。誰かの信仰に依存することはできないのです。信仰の自立がなければ、試練・迫害・困難にすぐに負けてしまいます。一人ひとり戦う備えをしなければなりません。

 神はさらに民を篩い分けます。「士師記7:4〜8」これは不思議なことです。彼らは信仰の自立もしていて、他の人からも尊敬されている者たちであったでしょう。しかし、神様の篩いにかけられた時に人の目にはわからない真実が現れました。この人々は勇敢な者たちではありましたが純粋さにかけていたのです。膝をついて水を飲むとは自分の渇きを満たす事を第一に考えている行動です。戦争中に膝をついて真下の水だけを見つめている者はあまりに無防備です。彼らは後ろから敵が襲ってくる事にも気がつかないでしょう。自分の事が第一に来て主の戦いはその次に来ている者でした。

 クリスチャンにもさまざまなタイプがあります。あからさまに神に従わない偽クリスチャン、もうひとつは奉仕も献金もしっかりとして、一部の人から尊敬されているが、決して聖書に従わない本物の偽クリスチャンです。見たところは熱心ですが、決して悔い改めずに傲慢で、自分を慕うもの以外は裁きます。これは御心に生きることよりも自分のお心に生きることに熱心な者たちです。これらの人々も用いられませんでした。

 神は手の平から飲んだ敵の攻撃に備える事ができる者を選ばれました。彼らは主の戦いのために自分の命を見張り、自分の命を主のものとしていたのです。主の為に戦うと言う責任の下に自分の命をしっかりと見張っていたのです。

 300人という人数はとても少ない数ですが神にとっては充分でした。聖書を見る時に神は個人を通して多くの人を祝福しています。私たちは戦う時に多くの人数を求めるかもしれません。しかし神様は3万2千人ではなく純粋に神に繋がる300名を求めているのです。1%弱です。私たちも神に整えられ純粋に神に繋がる主の兵士として、信仰の戦いを勇敢に戦う者でありたいと願います。