2009年6月21日

 「人の業(ごう)、神の業(わざ)」 ヨハネの福音書9:1〜12

 落語家の立川談志という人が、「落語とは何か?」という漠然とした問題に対して、素晴らしい答えを出しています。「落語とは、人間の業の肯定である」というものです。悪いことだと思いながらも、やっちゃいけないと知りながらも、やってしまうのが人間であり、それを否定しないのが落語だ・・と言うのです。

 ローマ人への手紙でパウロも「わたしは自分のしていることがわかりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」と告白していますが、私たちは自分の力では罪や肉、悪というものに勝てないのです。自分のことは自分が一番わかっていると人は思いがちです。しかし、自分のことを一番わかっていないのもまた自分なのではないでしょうか。実は自分は何もわかっていないのだということを知ることが、本当に自分を知るスタートになるのだと思うのです。

 そんなしょうがない自分、ダメな自分を発見した時、私たちはどうすればいいのでしょうか。落語の世界は「それでいい。人間なんてそんなもの・・」で終わってしまうのですが、神様は、イエス様はそれで終わらせたりはしません。神様、イエス様は、どうしょうもない私を、ダメな私を、それでも愛して、それだからこそ愛してくださいます。決して、立派な行いをしたから赦してくださる、愛してくださる、というのではありません。「健康な人に医者はいらない」と優しく言ってくださる方なのです。

 生まれつき目の見えない人にどんな罪があるのでしょう、と弟子から問われた時に、イエス様は「神の業がこの人に現れるためである」と答えられました。イエス様の言うとおりにして、見えるようにしてもらった盲人は言いました。「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」 何が自分に起こったかはわからなくても、イエス様を本当に信じた者には、自分が変わったことだけはハッキリとわかるのです。

 「人の業(ごう)」を取り去ってくださるのは「神の業(わざ)」でしかありません。「わたしを見なさい」「私の言葉を聞きなさい」とイエス様は言われるのです。自分のどうしょうもない所、ダメなところ。イエス様を信じ、イエス様にそれを委ねてみましょう。弱いときほど強くしてくださるイエス様に感謝します。