2009年6月7日

「愛し抜かれた者として」 ヨハネによる福音書13:12〜17

 マタイ福音書20章によれば、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子についてイエス様に願いを申し出たと書かれています。「王座にお就きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエス様がイスラエルの王となり、国を再建してくださる方だと信じての願いでした。少しでも人の上を行きたい、人に負けたくないというのが私たち人間です。自由、平等で便利な世界を作ると言ってもそこには自分たちの欲望を実現したいという私たちの姿が隠れています。しかし、イエス様が実現されようとした世界は「互いに愛し合う」世界、イエス様が弟子の足を洗い、その模範から始まる世界でした。

 「仕えることは愛すること」当時。足を洗うのは奴隷の仕事、しかも一番つまらない仕事でした。イエス様の模範の際立ったところは、愛をもってそれをすることでした。イエス様はこの世での最後、十字架が近づいたことを悟り、弟子たちを愛してこの上なく愛し抜かれてその模範を示されました。人に仕えることは難しいことです。しかし、イエス様によって自分がこよなく愛し抜かれ、仕え尽くされている者であることを福音によって知り、聖霊によって信じることは、仕える者にとって大切なことです。

 「仕えることは自分を献げること」 過越祭の前にイエス様はベタニアでマリアから高価なナルドの香油による足の清めを受けられました。それは、十字架の死の葬りの準備であったと言われています。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た。」とイエス様が言われたように、イエス様の究極の奉仕とはその命を献げることでした。イエス様による洗足のわざを受けることは、十字架の死による罪の贖いに与かることであり、復活の命に与かることです。仕えることは倫理道徳的なことではなく、イエス・キリストの十字架に至るほどの従順によって逆転された、価値基準の世界に生きることだと思うのです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイ6:33)」人は、自分の欲望を満たしても平安はありません。イエスにあって自分を献げ合う世界に神の国を見ることができると思います。