2009年5月31日

「近づいた神の国」 マルコによる福音書1:14〜20

 本日の礼拝は、聖霊降臨日礼拝です。復活されたイエス・キリストが弟子たちの前から天に上げられてから50日目、約束通り一つ心となって集っている所に聖霊が与えられ、主イエスの救いを証しする教会が誕生しました。使徒パウロが「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない(1コリント12:3)」と言ったように、聖霊は主イエスの福音を信じる助け主です。

 神はマイナーな(重要と思えない)場所でその業を行われます。:ガリラヤ、特にナザレは田舎、ユダヤの人々にとって何の良いものも出ない場所(ヨハネ1:46)、ましてメシア(救い主)が出るなどと思える場所ではありません(7:41)でした。しかし、神の救いの働きは、そこからイエスを通して始まりました。重要と思えない場所、神が働かれるはずがないと思える場所で神は働かれます。「復活のイエスにはガリラヤで会える。」(マルコ16:7)と、空になった墓で天使は女性たちに伝えました。

 神は小さな者を大きく用いられる力ある方です。:「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と言われた主イエスに最後までついて行けた弟子は一人もいませんでした。人の思いでついて行こうとしたからです。最初に弟子となりイエスを裏切ったペトロは聖霊を受けた後、大胆に福音宣教する者とされ、身を寄せた海辺の町カイサリアでは異邦人への聖霊の注ぎを体験しました。また、「わたしは神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。(1コリント15:9)」と言ったパウロも、バルナバと共に遣わされた町アンテオキアで聖霊により世界伝道に送り出されて行きました。

「時は満ち、神の国は近づいた。」とイエスは宣言されました。「近づいた」との言葉には「すでに」という時と「まだ」という時が同時に存在します。イエス様が、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言われるように、信仰は新たにされていく必要があります。なぜなら、私たちが生きている間はまだ戦いがあるからです。しかし、聖霊は既にもたらされた主イエスによる救いを保障し、まだ続く私たちの戦いを助けて下さるのです。