2009年5月3日

 「魂の渇き」 ヨハネによる福音書4:1〜15

 魂の渇きは行動に現れる。

 ある知人が、カウンセリングをしている人から「あなた寂しくない?」と聞かれたそうです。知人は、幸せを感じておりそんな自覚はまったく無いのにそう問われてびっくりしたと言っていました。それは、問われた知人の口から不平や不満、人を非難する言葉が事あるごとに出ていたからなのだそうなのです。そして、思ってもいない言葉が続きました。「人を裁くというのは大変なことだよ、それより受け入れること、楽になるから。受け入れることは、自分と他者とにきちんと線を引くこと、あなたはあなた私は私という当たり前のことから関係を始めることだと思うよ。」と言われたそうです。

 サマリヤの女性は、サマリヤ人というだけでユダヤの人たちからは疎外されていました。歴史的な宗教上の理由があったからです。そればかりでなく、倫理的に問題があった彼女は同国人からも疎外されていました。それは、彼女自身身に覚えがあり、自分なりに認めていたことでしょう。しかし、イエス様は飲み水の問答を通して、彼女の気付かない魂の渇きについて語られました。今、家庭でも学校でも職場でも寂しい人が増えています。魂の渇きは口に出さなくても疎外感として不平や不満、非難の言葉として表に現れてきます。しかし、皆、自分の魂が渇いているとは自覚できないのです。
魂の渇きは神の恵みの雨、キリストの愛によって癒される。

 カール・バルトという神学者は「神は世を愛された。神は、イエス・キリストにおいて、世に対して然りを語った。」と言いました。それは、神様が、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる方である(マタイ5:45)ことを、キリストの十字架によって証明されたことを物語っています。「この水(人間愛)を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水(神の愛)を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:14)と、イエス様はサマリヤの女性に言われました。女性は本音で応えました。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水を下さい。」彼女が、イエス様をメシアと信じた時、彼女は疎外していた人々のもとへ出て行って、主を証したのです。キリスト・イエスによって全肯定された「私」に新しい人間関係が始まったのです。