2009年4月26日

 「神のみ側に」 ローマの信徒への手紙5:1〜9

 クリスチャンになる前の私は、世の中で大切なことは倫理道徳を守ることだと思っていました。また、自分にはそれを守っている自負と自信がありました。しかし、様々な経験を経て、私は自分の理想とは間逆な生き方をしていることが分かってきました。「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマ3:10)とのパウロの言葉によって、私の現実を知り、「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。・・・人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」(3:20、28)と、神の憐れみ中心の世界がもう一つの現実として存在していることを知りました。

 ローマ書12章以降でパウロは新しい生活について語ります。しかし、私は彼が私たちに倫理道徳的に理想的な人間になることだけを求めているとは思えないのです。世の中で起こる悪質で凶悪な事件から倫理道徳的な小さな事件にいたるまで、私たちは傍観者として生きています。中には自分と重ね合わせて受け止めている人もいるでしょう。しかし普通、社会の法律を通して犯罪の中に私たちは「罪」を見ることはあっても、その法律外にいると思っている自分の中の「罪」を切実に見ることはありませんし、その罪が赦される必要があることなど思いもよらないのです。パウロは、「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。」(5:6)と、私たちが罪に気付く前に神はその処置をしておられたと言います。そして、「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」(4:5)と、良い行いや悔い改めの前に既に神が赦して下さっていると言うのです。

 大切なのは「心を新たにして自分を変えていただくこと」(12:2)です。神の憐れみの世界が今現実の世界と同居していることに気が付くことは、イエス様が語られた教えが決して新しい倫理道徳の教えではなく、神の国の到来の宣言であったこと、そして、パウロが、「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ローマ6:23)と言う、資格の無い者が有限存在から無限存在に移されるという大革命の知らせだったのです。そこで初めて私たちは「ねばならない」こと、「べきである」生き方から開放され、「すでにそうである」存在へと変えられていくのではないでしょうか?神は言われます。「たとえ、女たちが忘れようともわたしがあなたを忘れることは決してない。」(イザヤ49:15)と。