2009年4月12日

 「復活の命に結ばれて」 ローマ人への手紙6:1〜11

 イースターおめでとうございます。私たちは、主イエス・キリストが十字架にかかり死なれた事実を歴史に見ることができ感謝です。そして、使徒たちや多くの人々によるイエス復活の目撃証言が聖書に記録されていることもありがたいことです。信仰はその命の証言を信じ、「しかり」と告白することによって始まります。

 「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼(バプテスマ)を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼(バプテスマ)を受けたことを。」 「死」の不安は人をあらぬものにすがらせます。また、人は「死」に対して抵抗感があります。痛みや苦しみがあり、愛する人との別離があるからです。人は誰でも必ず死ぬ、それは自然なことなのにそれを受け入れることができないのです。しかし、聖書は「死」を不自然なものとします。神は世界を良いもの、永遠のものとして造っておられるからです。(創世記1:31) 不自然な「死」をもたらしたものは「罪」だとパウロは言います(ローマ5:12)。そして、その世界で「罪と何のかかわりもない方(イエス・キリスト)を、神はわたしたちのために罪となさいました。」(2コリント5:21)と彼は言います。さて、福音を信じて受ける洗礼(バプテスマ)には二つの目的があります。

 一つには、キリストに固く結びつけられるためです。一緒に十字架にかかるということは死を体験することです。しかし、死の苦しみを味わわれるのはイエス様だけです。キリストを信じる者は霊の死から安全に守られ死の苦しみを味わうことはありません。キリストはただ一度完全に罪に死んで下さったのです。

 もう一つは、復活の命にあずかることです。キリストにしっかり結びつけられたなら、死にあずかると同時に、キリストがよみがえられたように、一緒に永遠の命にもあずかるということです。 「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(2コリント5:17)

 人生の中で、神はどこにおられるのだろうかと思う時があります。弟子のトマスに示された主イエスの手とわき腹の傷は、キリストが十字架の上で今共にその苦しみを味わい、その痛みや苦しみを理解して下さっていることを想起させます。その主の体にくくりつけられて良いと思える時、主の復活にもあずかれる気がします。