2009年3月29日

 「福音の光」 マタイによる福音書5:13〜16

 山上での説教の冒頭、イエス様は神を頼りとして生きる者の幸いについて語った後、「あなたがたは地の塩である・・世の光である。」と弟子たちに宣言されました。

 私たちの教会には三つのビジョンがあり、二番目は“地域に神の愛を伝える場「灯台」となること”というものです。「地の塩」「世の光」はキリストご自身を現すもので、キリストの集会である教会との関係をも現します。神のみことば、福音を伝えることのない教会は塩気を無くした塩と同然だとイエス様は語られます。また、イスラエル民族は世界に対して自ら「世の光」の民であることを認識していましたが、イエス様は「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)と御自身が光であることを表明されました。

 灯台となることは、第一に「恵みに生きる」ということです。確かに、イエス様は「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」と言われました。しかし、それは行いの立派さの輝きを言っておられるのではなく、神の愛と赦しに生きることから生じる実、感謝と喜びの輝きを言っておられるのです。良い行いに生きることは立派なことですが、良い行いは世の光となることはできません。キリストご自身が光であり、キリストの愛と恵みによって生きる時、教会は堅固な山の上の町となりキリストを輝かすのです。主の光を輝かす灯台を建てたいものです。

 第二に、「キリストの新しい命に生きる」ということです。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。・・わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。」(ローマ6:4、6) 福音は罪の赦し以上のものです。「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。」(テトス2:14) 教会は世にあって世を清める具体的な働きに遣わされています。