2009年3月22日

 「心のオアシスなる礼拝」 詩篇122:1〜9

 「人間」という言葉のギリシャ語は“上を見上げるもの”ということは知られています。人は何がしか崇め敬うものを必要とする存在として造られているのかも知れません。詩篇は神と共に生きるイスラエル人の喜び、苦しみ、悲しみを歌い上げています。特に120編から始まる都上りの歌は奴隷の地から祖国に帰還し礼拝に向かう人々の喜びを歌っています。

 「主の家に行こう、と人々が言ったとき わたしはうれしかった。」122:1

 私たちの教会の三つのビジョンの一番目に「地域の憩いの場となること」があります。それは教会が心と霊のやすらぎの場になっていくことを意味します。霊の安らぎの場とは、礼拝に招かれる場となることです。たとえ周りの状況が荒れ果てたとしても、神は礼拝を通して私たち自身と私たちの関係とを回復させ復興させて下さいます。それ故、神は人が神を求める以上に真の礼拝者を求めておられます。

 「そこにこそ、裁きの王座がダビデの家の王座が据えられている。」5節

 「神の裁き」とは本質的な罪の裁きのことですが、「ダビデの家の王座」すなわちキリストによってもたらされる赦しは私たちが「〜であらねばならない」「〜であるべき」という律法的生き方から開放されて生きることを意味しています。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。(2コリント13:4)」人の魂は、その事実を信じるとき静かに問題と向き合う力を与えてくれます。

 「わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。『あなたのうちに平和があるように。』わたしは願おう、わたしたちの神、主の家のために。『あなたに幸いがあるように。』」8節。 主の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です(1テモテ3:15)。マザー・テレサはいつもその働き場を訪ねた人々を迎えて言ったそうです。「まず最初にこの家の主人にご挨拶いたしましょう。イエス様がここにおられます。」私たちの教会が礼拝に土台を置き、共にある礼拝を目指さないならその働きは空しいです。その礼拝の先にこそ平和と幸いが既にあるからです。