2009年3月8日

「心の板に書かれた手紙」 コリント人への手紙二 3:1〜7

“主は言われた。「見よ、わたしは契約を結ぶ。わたしはあなたの民すべての前で驚くべき業を行う。それは全地のいかなる民にもいまだかつてなされたことのない業である。あなたと共にいるこの民は皆、主の業を見るであろう。わたしがあなたと共にあって行うことは恐るべきものである。”(出エジプト34:10)

 神との出会いは人生を変えます。エジプトの国からイスラエルの人々を救い出したモーセは神ご自身と出会い、使徒パウロは復活のイエス様に出会って迫害者から偉大な伝道者に変えられました。そこには人の超えられない苦難がありました。

神との出会いは人を信仰の危機に直面させます。危機とは人生の危機ではなく、人が神をどのような方として受け止めるかを決定する危機です。神を自分自身の人生の計画の助け手とするか、あるいは神に仕える者とするかによってその働きは大きく異なって来ます。冒頭の言葉は、ひと時も神に信頼できなかった民に、再度十戒を与える時の主の言葉です。「驚くべき業」恐るべきものとは、奇跡ではなく、神との約束を守れない絶望的な人間に与えられる新しい契約のことです。パウロの言う、行いや働きによって義とするのではなく、ただ主イエスの福音を信じる信仰によって義とする驚くべき神の業です。自分に可能な範囲で生きていく分には信仰は必要ありません。しかし、神との出会いが本当の出会いとなるためには自分自身が神の驚くべき救いのご計画に招かれていることに気付く必要があるのです。信仰を働かせる時、私達は神にしかできないことを知り、神に信頼することを学びます。

神が推薦し、その業を行われます。パウロは言います。「わたしたちの資格は神から与えられたものです。神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。」それは、神にしか手に負えないことに、信じる者を通して共に働いてくださる神の約束です。神は主イエスにある生きた多様な人々との信頼関係を通して救いの業を続けてくださっています。自分の力だけでやれる使命があるとすれば、おそらくそれは神からのものではないと思います。神からの使命には神の力と備えがあり、福音に仕える使命には神の栄光が満ち溢れ、その栄光は永遠のものです。