2009年2月22日

「祈りの力」 マタイによる福音書26章36〜46節

このゲッセマネの祈りは、私たちに祈りについて多くのことを教えてくれています。

1.私たちの悲しみ、痛み、苦しみをわかってくださるイエス様

 イエスさまは弟子たちに「私は死ぬばかりに悲しい」。「できることならこの杯を取り除いてください」とおっしゃっています。死を恐れ、悲しみ苦しんでおられます。イエスさまは、いかにも弱々しい姿ですが、しかしそのような方であるからこそ、人の苦しみ、悲しみをわかってくださるのです。そしてその弱さは、祈りを重ねていく中で、力へと変えられていくことがわかります。

2.みこころがなりますようにと祈るとき、私たちの祈りは変えられる

 イエスさまは、ゲッセマネで3回とも同じことを祈っているようですが、少しずつ変わってきます。1回目は「私からこの苦難を過ぎ去らせて下さい」。それが2回目になると「私が飲まない限りこの苦難が過ぎ去らないなら御心が行われますように」。そして、3回目は「同じ言葉で」と書いてありますが、「わかりました御心が行われますように」と苦難を受け入れるように変わっていきます。 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)。3回の祈りを通して、イエスさまが祈られたのは、私の思いを優先させるのではなく、神様のみこころをなさってくださいという祈りです。私たちは、御心のままにと祈るとき、私たちの祈りは変えられていきます。

3.誘惑に陥らないように目を覚まして祈っていなさい

 この祈りの間に、イエスさまは、弟子たちに「誘惑に陥らないよう目を覚まして祈っていなさい」といっています。この誘惑とは、神さまから私たちを引き離そうとするサタンの試みです。イエスさまを持ってすれば、この祈りのあとに起こる十字架からも逃れることは、たやすかった思います。しかしそれがまさにサタンの誘惑なのです。イエスさまはまさにこの誘惑と戦って祈られました。苦しみを除いてほしいと祈り、その祈りが聞かれないと思われるようなとき、神様はいるのだろうか、と神を否定し、不信仰になっていく。これがサタンの誘惑、思う壷です。イエスさまは、サタンの試みに必死で抵抗し、「汗が血の滴るように」(ルカ22:44)神さまのみこころを祈りました。しかし、そのように必死に祈っているイエスさまをよそに、私たちもまた起きていることができずに眠ってしまっているのではないでしょうか。

 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります」(マルコ14:36)神さまは、私たちに最善の道を示してくださらないはずはないという信頼です。ですから、すぐに神さまは叶えてくださらないことがあっても、神さまは何をなさろうとしているのか祈り続けること、神様との交わりを深めていくとき、祈りの内容も変わってきます。最善を導いてくださる神さまのみこころのままにという祈りを祈ることのできるものとなりたいと思います。