2009年2月15日

 「無条件の愛」 ルカによる福音書15:11〜24

 新しい命が生まれて来るとき、その周りでは大きな喜びがあります。生まれた子の存在そのものが喜びで、その子がどうであるかは問題ではありません。ルカ15章冒頭では、徴税人や罪人と親しくされるイエス様に不平を言ったファリサイ派や律法学者たちに対して、失われた羊を探し回り、見つけて大喜びする羊飼いの姿を通して失われた魂を探し求める神の愛を生き生きと描きます。そして、ルカは別の二つのエピソードを加えて、救いに条件をつけて人を裁く不自由さの中に生きるユダヤ教指導者たちに、それ以上の愛が注がれていることを伝えたのです。

 有名な放蕩息子のたとえは、父なる神が立ち帰る者を無条件の愛で迎える神であることを伝えます。罪を反省し、悔い改めるから赦され歓迎されるのではありません。無条件に赦されたから悔い改めが生じるのです。キリストの福音の偉大さは、徴税人や罪人が、徴税人や罪人のままで赦されると解くことです。

 使徒パウロは、イエス様にある無条件、無限の愛に出会い赦され癒された人です。彼はその愛を「もったいない」と考えました。普通その意味は「限りある資源を大切にする」と言うことですが、パウロにとっては「無限にあるものを使っていない」と言うことです。彼は、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。(フィリピ3:8)」 彼は、神の愛を自分だけのものにしておくのはもったいないと、湯水のように大胆に伝え用いました。

 このように言うと、信仰はやはり何かをすることだと考えてしまいますが、そうではありません。救い主、主イエスは既に来て罪の贖いを遂げて下さいました。その事実に生きることが信仰です。イエスのために生きるのではなく、イエスにあって(無条件の愛で愛されている事実に立って)生きるのです。神は罪人の死を喜ぶ方ではなく、その道から立ち帰り生きることを喜ぶ神です。(エゼキエル18:21-32)