2009年2月8日

「不満の壁」 出エジプト記16:1〜12

 「のど元過ぎれば熱さ忘れる」と言いますが、人はどんな体験をしても今が良ければ苦しい時に得た教訓を未来に生かすことが難しいようです。信仰も体験のみに基づいたものであると、普段の平和な日常生活の中では返って苦しい時よりもその大切さが分かりません。人の未来に対する取り組みを害するものに、「あきらめ」と「不平、不満」があります。「どうせやっても無駄」という思いは、私たちの未来を蝕みます。民のエジプトからの脱出は、神による「あきらめ」からの開放でもありました。しかし、それよりも民の霊的な深刻さは神に対する不平不満でした。

 「不平、不満」は罪への入り口です。パウロは「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。(エフェ:ソ)」と人に対する消極的な感情も、神への信頼と祈りとによる聖霊の導きがなければ結局は神に対する憤りとなり、神に対する罪となる危険性を指摘しています。イスラエルの民は荒野での生活の中で自ら神の前に一度も感謝することはありませんでした。神は「感謝」を教えるために彼らを荒野に追いやられたのかも知れません。

 「不満」の壁を越えるために必要なことは、信じて求めることです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。(マタイ7:7)」とイエス様は、「わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに主よ、あなたはすべてを知っておられる。(詩編139:4)」とダビデが歌ったように、求める前から私たちの必要を知っておられる神を信じよと言われます。イスラエルの民に、「マナ(これは何?)」を与えて下さった方は、今を生きる私たちに、「パンを欲しがる自分の子に石を与えるだろうか?」と語りかけ、「わたしが命のパンである。(ヨハネ6:35)」と宣言されたイエス様を与えて下さいました。

「だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。(マルコ11:23)」 主イエスに信頼し少しも疑わないことが、不満の壁を破る秘訣です。