2009年1月25日

「いかなるときにも感謝の祈りを」 ピリピ書4:4〜7節

 「喜びましょう・感謝しましょう」という言葉はクリスチャンであるならばよく使う言葉であり聞きなれた言葉であります。しかし、パウロが語るこの言葉は不思議であり驚くべき言葉であります。なぜなら私たちは普通喜べるときに喜び、感謝できるときに感謝するのですが、パウロはそのような幸せな状況にはいないのです。なぜなら彼はこのピリピへ宛てた手紙を牢獄の中から書いているからです。そんな中にあっても彼は教会の人々を励まし続けます。

 このようなパウロの信仰を見るときに、それは私たちには到底到達できない境地のように感じますが、最近教えられる事はこの状態こそがクリスチャンの正常な状態であるということです。それは、パウロは「主にあって喜んでいた」ところに答えがあります。私たちは色々な状況や環境に置かれています。もし私たちが自分の周りや自分自身を見つめていくときに必ず信仰の浮き沈みが発生します。しかし、パウロのようにいかなる状況に置かれたとしても、主を仰ぎ感謝していくときに私たちは主にあって喜ぶことができるのです。私たちの前にはいつも主との交わりがおかれていることを覚える者でありたいと思います。信仰は信頼することであり、信頼することは疑わないことです。私たちはいかなる状況に置かれても主に感謝し交わりを持ち続けるものでありたいと思います。

 「(6節)何も思い煩らはないで」とあります。私たちクリスチャンは罪を犯さないように注意深く信仰生活を送ります。それは主からの命令だからです。しかし不思議なことに思い煩いに関してはその思いを何の躊躇もなく心に放置することがあります。罪からくる報酬も死ですが、思い煩いを心に溜めすぎる場合も私たちを死に至らしめるのです。

 私たちは「あらゆる場合に、感謝を持って捧げる祈りと願いによって、」大胆に重荷を降ろし喜びあふれて主とともに生きるものでありたいと思います。