2009年1月18日

「小さな信仰、大きな希望」 マタイによる福音書6:1〜34

 「わたしがエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」(出エジプト記7:5)

 これは、本日の礼拝の招きの言葉で、主なる神の絶大な力を示す言葉です。迫害を受けていたイスラエル人を主なる神は、苦しみの地エジプトより故郷カナンへモーセをリーダーとして導き出して下さいます。しかし、不思議なことに当のイスラエルの民はその行く先々でつぶやきつづけるのです。そして、イスラエルの神の力に恐れおののき、その神の力を認めたのは、むしろエジプト人でした。

 横浜市中区寿町は、東京山谷、大阪西成に並ぶドヤ街の一つと言われています。その一角にある教会(カナンキリスト教会)では、アル中、シャブ中、ギャンブル狂の浜ちゃん、熊さんがキリストにある希望を見つけ救われることを願って必要最低限の中で生きる人々へ物心両面での応援を続けています。

 イエス様と弟子たちの約3年に渡る伝道生活は、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(8:20)と言われたように過酷なものだったに違いありません。そして、最後に十字架を前に弟子たちは逃げ去ってしまいました。「本当に、この人は神の子だった。」むしろ、十字架の死の前にイスラエルの神の力、神の義(恵みに依存した正しさ)であるキリストを告白したのは異邦人であるローマ軍の百人隊長でした(マルコ15:39)。

 「思い煩い」それは私たち共通の悩みです。神を知る接点です。イエス様は、神と富と(の両方)に仕えることは出来ないと言われました。それは、私たちが誰しも何かに依存して生きている存在であることを表します。また、「思い煩い」を神に任せれば万事OKということでもありません。現実生活の中で神以外のものに依存し、神と富との間を揺れ動くナマの私たちにこそ、貧しさを覚える人々の前にキリストにある希望が問われます。「神の国と義」を第一とすることは、空の鳥や野の花を前に、親が子の生活を思いやるように私たちの必要を支えて下さっているのが神であることを知ることだと思います。一人暮らしの若い時、親からの小包がこまごまとした必要品で一杯だったことを思い出します。そして、助けを必要とする人たちの必要を何とか知ろうとする中に、イエス様がおられることを感じます。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(10:42)イエス様は貧しい人をわたしの弟子と呼ばれ、小さな信仰から大きな希望をお与えになるようです。