2009年1月11日

「我弱くとも」 出エジプト記3:11〜15

 イスラエル人の信仰の父、アブラハムが神に召され故郷を離れ、約束の地に向かった時からおおよそ650年後、神様はモーセに現れました。それは、アブラハムに神が預言された通り、寄留の地エジプトで民族となるまで増え広がり奴隷となった彼の子孫を苦しみから救うためでした(創世記15:13)。

 日々、私たちは、あれもしなければならない、これもしなければ・・という世界に生き、疲れ果ててしまうことがあります。「公私共に力不足を感じている時、神は、自分の努力不足を責めておられるのではなく、むしろ力不足の所にこそ神の力を十分に現して下さるのだと知った。」と証された方がいます。主なる神と出会う前のモーセは、同胞の救いのために召命感、正義感をもって挑みましたが、結果的に失敗してしまいました。今、私たちの世界は、奴隷となって苦しんでいたイスラエル人の状況とは違いますが、難問山積で未来に向かって進もうとしています。米国では史上初の有色人の大統領が誕生し、現実を直視し未来に向けて、一つの国民として違いを超え、レンガを一つひとつ積み上げるように忍耐強く国を再建していかなければならないと訴えました。しかし、同時にモーセに学ぶことがあります。

 それは、「神の召し」に生きることです。モーセが挫折してから、同胞を救い出すために信じられないような忍耐と努力を必要とする任務に召されるまで40年の歳月を必要としました。モーセを変えたのは神との出会い、呼び出す神ご自身でした。「モーセよ、モーセよ」。そして、神は言われました。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」今日、神の呼びかけは、世の中の人には説得力がなく、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる。(ローマ10:13)」とのパウロの福音の言葉は人気がありません。しかし、「わたしはある。わたしはあるという者だ。」と呼び出す神は、苦しみ悩む私たちと共にあり、たとえ私たちが弱くともキリストを信じる信仰という召しを通して働いて下さいます。新しい年、教会の歩みも世の荒波の中に決して平坦なものではないでしょう。しかし、キリストにある「神の召し」は恐れから私たちを守ります。私たちを変えるのは神との出会い、神ご自身です。神の力が、私の力不足の所にこそ働くとは恵みです。