2008年12月21日 <2008年クリスマスメッセージ>

「希望の光」 ルカによる福音書2:8〜20

 「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」(マタイ4:15、16) クリスマスのお喜びを申し上げます。

 クリスマスは私たちに希望の光の到来を告げます。救い主は、神になった人ではなく、人となられた神のこと、ヨハネは「その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(1:12)と言いました。そこには、みどり子を通し、みどり子を信じることによって私たちを救ってくださろうとした、神の決意を見ることができます。人の力を全く必要としない神の愛による救いが示されています。

 神が与えて下さる「希望」について最も大切なことは、それは既に「来た」ということです。人間由来の希望は将来に関することで、人間次第で変わりやすいものでもあります。「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア(救い主)である。」(ルカ2:11)その知らせは当時、人口調査でも数えられず、清い神様とは最も遠いと決め付けられていた羊飼に初めに届けられました。

 また、「希望」は約束に基づいています。信頼できる人と約束したことは、この世においても希望となります。聖書の言葉はそれを超え「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」と救い主到来の約束が既に果たされたことも宣言しています。神のみ子、主イエスは約束されました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(ヨハネ11:25) 確かな約束は死を恐れず生きていく希望を生みます。

 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(ルカ1:28) 天使のマリアへの言葉は、「希望」自身が私たちに問いかけることに気付かされます。この世にあって、清く遠い存在と思われていた神が、現実の状況を含めたありのままの自分自身と共におられることを信じる信仰を求めるのです。神は、私たちが強くあることや善良で正しい人間であること、完全で非のうちどころのない人であるかどうかを問うことなく、「こんな私」さえ愛し、共にいてくださろうとする神をただ信じるかどうかを問われるのです。マタイ福音書では、インマヌエル「神は我々と共におられる」と、神は信じる全ての人とどんな時にも共にいて下さると約束しています。

 「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(1ヨハネ4:)最後に、希望とは、神は愛の神だということです。私たちを愛に基づいて正しく裁き報いてくださる神であるということです。これは重要なことです。人は神のように善悪を正しく判断することは決してできないのです。愛の神に委ね、人を裁くことからも開放されること、これも希望です。

 イエスは言われました。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(ヨハネ12:36)

 誰をもどんな問題をも瞬時に変え解決できる神が、この世で最も小さく、助けられなければ生きていけない存在として、私たちの世に来てくださったことは不思議以外の何ものでもありません。本当の「平和」、「信仰」そして「愛」をもたらすことのできる赤ちゃん、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)と言われる主イエスによって癒され、変えられていく自分自身から始め、そして世の中となっていくことを希望します。