2008年11月30日

「待ち望む」 ルカによる福音書1:57〜66

 いよいよ救い主、イエス・キリストのお誕生を記念し、喜びをもって主をお迎えする準備の季節となりました。人間の歴史の中でクリスマスは、その時代がどうであれ、喜びと希望のしるしとなってきました。しかし、聖書に「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。(口語)」(箴言19:21)とあるように、クリスマスはある意味、人の計画と神のご計画とが交差する時と言うことができます。イスラエルの人々はずっと救い主を待ち望んでいました。他国に支配され、苦しめられていた神の民をその苦しみから解放し、救ってくださる方を心待ちにしていました。そんな「待ち望む」人々から学ぶことがあります。

 第一に、「へりくだりって」待ち望むことです。神の救いの計画はまず、洗礼者ヨハネの父ザカリアから始まりました。祭司として当番の仕事をしていたザカリアに天使ガブリエルは、救い主に先立つ宣教者となる子どもを与えると約束しました。それは、ザカリヤ夫婦の長年の願いでしたが、老人となっていた彼らには信じがたいことでした。そのしるしとして彼は、その事が起こるまで口がきけなくなりました。神のご計画の前に私たちは口をつぐみへりくだって主を待ち望む時があります。

 第二に、「信じて」待ち望むことです。天使ガブリエルが次に訪れたのはマリアのところでした。天使の言葉に戸惑い恐れるマリアに彼は言いました。「恐れることはない・・神にできないことは何一つない。」私たちの課題は、自分の願いと神のなさることの差にどう向き合っていくかということです。マリアは応えました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」 神に心をひらき、自分の思いをゆだねる時、人知を超えた平安を与えてくださいます。

 第三に、「讃美して」待ち望むことです。口がきけなくなっていたザカリアは子どもの誕生にあたり言い伝えによらず、主の言いつけ通り「この子の名はヨハネ」と証しました。するとたちまち彼の舌はほどけ、神と神の業とを讃美しました。思い通りにはならない世界で、私たちはそれぞれ懸命に願い、幸いを求めて生きています。しかし、実は神ご自身、み子イエスを通して私たちが神様に立ち返ることを待ち望み、仕えてくださったことを忘れないようにしたいです。