2008年10月19日

「神の宝の民」 イザヤ書43章1〜3・4節

 4節「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」この箇所から神様がどれほど私達の事を愛しておられ、高価で尊いとしてくださっているのかを学んで行きたいと思います。

 1節にヤコブとイスラエルという名前が出てきます。二つの名前が出てきますがこれは2人ではなく同一人物です。ヤコブは「かかとをつかむもの」というネガティブな印象の名前で、イスラエルは「神の皇太子」と祝福された意味の名前です。創世記32:26〜28節を見ると神とヤコブの格闘が記されています。ヤコブはこの戦いに勝ちイスラエルという名を頂きました。27節で「あなたの名はなんと言うのか」と言う問いに「ヤコブです」と答えます。これはただ名前を答えたのではなく、「私は父と兄とを騙した、かかとをつかむものなのです」という悔い改めの意味が含まれています。神は悔い改めるものを罰せず、祝福される方である事を教えられます。罪を悔い改めた私達は「神の皇太子」とされた事を確信し、その恵みの中で生きるものでありたいと思います。

 「あなたを造り出したかた、あなたを形造った。」とあります。私達は自分で生きているような錯覚に陥りますが、命の源である心臓の動きさえも私達の意志では管理できません。私達は生かされている事を深く覚え、信仰の成長をも神に求めるものでありたいと思うのです。そして、神にすがる時に御心を実行できます。

 2節「川を渡るときも、火の中を歩いても」---私達は様々な困難や試練の中を通されますが、神を信頼し続ける時に奇跡的な解決が与えられます。問題は問題にあるのではなく問題に捕らわれてしまう私達にあります。神に解決できない問題はなく、困難は私達を成長させ神に近づけるステップと言えます。

 3節「私が、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。」神が与えてくださる救いは永遠の命であり、私達は永遠の目的を持って生きることが出来ます。私達は罪赦され祝福をうけた「神の皇太子」としてそれぞれ遣わされている場所で生きるものでありたいと思います。