2008年10月12日

「憩いの場所」 エフェソの信徒への手紙3章14節〜21節

 先週、米国を震源とした世界の株価の大暴落が起こりました。これからどのような影響が出るか分かりませんが、よそ事に思えていた出来事が、自分の身に降りかかることもありえます。しかし、身に迫る危機は同時に私たちの心のありかを明らかにし、自分が本当には何を頼りとして生きているのかを考えさせてくれます。

 本日の招詞、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」(詩篇23)は、旧約時代のイスラエルの王ダビデが、愛する息子アブサロムの謀反により、こともあろうに家臣のアヒトフェル、友人のフシャイからも追われる身となった折に隠れ家の中で歌われた歌だと言われています。ダビデは失意と悲しみ、不安の中にあったと思われます。しかし、彼は神に信頼し神が共におられる場を憩いの場所とすることができました。新約の時代になり、イエス・キリストの福音を伝えた使徒パウロも、明日をも知れぬ囚われの身でありながら信仰の危機にあるエフェソの兄弟姉妹たちに手紙を書きました。危機の中にあるダビデやパウロに心の静けさを与え、落ち着いて事に当たらせて下さったのは神です。そして、特にパウロが心の憩いの場、隠れ家とした所は、漠然とした場所ではありませんでした。

 今の世の中、どこかせわしなく、皆いらいらしているところがあります。心が満たされず不安を感じることがあります。イザヤは言いました。「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(53:6) 彼とはイエス様、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばをわたしたちに委ねられたとパウロは言います(1コリント5:19)。パウロの願いは、神が信仰によってわたしたちの心の内にキリストを住まわせてくださること、それは、わたしたち一人一人の心の奥の傷がイエス・キリストの愛によって取り扱われ、癒されていくことを意味すると思うのです。世界は傷ついていると思います。そして、皆自分自身の魂の隠れ家を求めています。キリストにある救いの約束を憩いの場とし、どんな時にも落ち着いて事に当たりたいと願っています。