2008年9月21日

「何のために」 創世記45:1〜8

 本日の聖句の背景にはヤコブの家族の生き別れになった息子ヨセフとの再会の出来事があります。ごく身近な生活の中でも色々な事情によって愛する家族と生き別れ、何十年の時を経て涙の再会を果たす人たちの体験を聞くことがあります。互いに「生きていたからこそ」憎しみや誤解、苦労や忍耐といった葛藤を経たものにしか分からない喜びや人生の機微がそこにはあります。

 12人兄弟として育った11人目の息子ヨセフはヤコブの年寄り子で、愛妻ラケルとの間にできた子で父にひいきされていました。完全な親はいません。同じ子どもでも偏愛してしまうのが私たち人間です。それがもとで他の兄弟たちはヨセフを憎みました。そして、あろうことかヨセフは彼が見た、家族が彼にひれ伏す夢を兄弟や父母にまで話してしまいます。兄弟はヨセフを計略の罠にかけ、兄弟は彼が死んだものと思い込んでしまいます。しかし、彼はエジプトに売られていたのです。

 「どうして自分にこんなことが」と怒り悲しむことが私たちにはあります。もし、神がいるなら何故助けてくれないのかと恨むこともあります。見たくて見た夢でもないのに自分の能力のせいでヨセフの人生は狂ってしまい、順調に見えた新生活もいわれのない投獄で一変します。しかし、彼は自暴自棄になり転落の人生を歩むのではなく、その知恵と「夢解き」の賜物によりエジプトの宰相にまで上りつめていきました。聖書はそれを彼の性格や才能によるのではなく、「主が共におられた」からだと言います(39:2、21、23)。試練の中にそれを信じられることは恵みです。

 遥かな時を経て、父ヤコブ一家に飢饉が訪れ、彼らはエジプトに食料を求めて旅立ちます。宰相ヨセフの家族との再会は思いもよらぬ形でもたらされます。そして、和解の言葉はヨセフから発せられました。「兄弟たち、私にしたことで悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。・・私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく神です。」 私たちの出来事の中に神の支配があることを信じ、その目的が救いに至らせるためであることを確信するなら幸いです。ヨハネは「神が御子イエスを世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(3:17)」と言い、イエス様は「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。(6:39)」と言われました。神が報いの神であることを信じます。