2008年9月7日

「キリストにあって」 ヨハネによる福音書4:21〜26

 聖書によれば、罪ゆえに楽園を追放されたアダムとエバの息子たちは神を知り、礼拝をしていたことが分かります。しかし、にもかかわらず兄カインは弟アベルを敵意のゆえに殺してしまいます。罪は人々を神から遠ざけ堕落させ、洪水による滅びへと向かわせました。神はノアとその家族を救い新たな関係を結ぼうとされましたが、人々は神を選ばず傲慢になり天に届くほどの塔を建て神となろうとさえするようになりました。そのような中、神は一人の人アブラムに目を留められました。

 サマリヤの女性に対してイエス様は「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」と言われました。それは、礼拝論争に終止符を打つ言葉でした。アブラム(後のイスラエルの信仰の父アブラハム)を通して神は正しい礼拝を教え、その形の中に神との生きた関係を作り上げようとされました。後にその子孫はエジプトに逃れ奴隷の民となります。モーセによって救い出されたイスラエルの人々は荒野で40年間も移動式天幕の祭壇を中心とした礼拝を守り、約束の地カナンでついにはダビデとその子ソロモンによって固定式の神殿を中心とした礼拝に導かれます。しかし、王や民の不信仰により国は分裂、アッシリアやバビロニヤに滅ぼされ離散し、奴隷となって連れ去られてしまいます。その苦しみの中から会堂を中心とする小さな単位の集会が始まり目に見えぬ真の神を求める礼拝が始められて行きました。民族的純血を守った南王国ユダの人々はエルサレム神殿を中心とし、他民族と混ざり合った北王国イスラエルはサマリアにてゲリジム山の神殿を真の礼拝の場所としました。

 教会の執事であり最初の殉教者ステファノが「いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。(使徒7:48)」と言った通り、本当の礼拝の場所は神がしつらえてくださった和解の場、キリストによる犠牲の贖いを信じ、感謝と喜びをもって集う真心が通う場、キリストにあって守られる公同の礼拝の場です。

 サマリヤの女性は、イエス様が真の犠牲の献げ物となって下さる救い主であることを信じました。信仰の創始者であり、完成者はイエス様です。その方に倣い、その方の救いを信じ真心をもって礼拝に集う人々を主は望んでおられます。