2008年8月31日

「神様のルール」 ローマの信徒への手紙10:5〜13

 日々、熱戦や感動を伝えていた北京オリンピックも終わりました。すべてのスポーツ、競技にはルールがあります。その範囲の中で力を競い合うからこそ、ドラマがあり、感動があるのです。私たちが、個人としても、社会の中でも、生きていく上でルールというものは必要不可欠なものです。慣習、法律、経済、常識・・・様々なルールがありますが、それは私たちが本当に安心して委ねることができるルールでしょうか。

 神様は、かつてイスラエルの人々に「律法」というルールを与えたことが、旧約聖書に書かれています。それは、すべてを守ることは不可能に近いというほど細かく、また厳しいものでした。その中では、正しい者は一人もいないとさえ思われるほどのものでした。しかし、そんなルールの中で、自分に罪があることさえ自覚できない人間を憐んだ神様が、愛と慈しみをもって、まったく新しいルールを与えてくださったのです。古いものを、まったく新しく変えてくださったのです。それが、イエス様の十字架の贖いでした。

 使徒パウロは、ローマ信徒への手紙の中で、自分自身も罪に勝てない弱い者であり、神様の愛と憐みによってのみ救われていることを告白し、こう言っています。『わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています』 そして、こうも言っています。『口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです』

 社会の中には、人が作った多くのルールがあります。しかし、私たちが、まず第一に委ねていかなければならないのは、神様が作ったルールではないでしょうか。法律は為政者の都合で変わっていくルールです。財産やお金も、突然無価値になることだって有り得るルールの中にあるものです。しかし、神様が下さる愛と憐みは変わることがありません。しかもそれは、ただ古い自分がイエス様と共に十字架につけられたと信じるだけで、すべての人に与えられるものだとパウロは言っています。神様は、何の見返りも求めていません。その愛と憐みという神様のルールを、ただ受け取るだけでいいと言うのです。

 本日の箇所に出てくる 『主を信じる者は、誰も失望することがない』 『主の名を呼び求める者は誰でも救われる』 という御言葉。眉唾ものだと思われますか?

 それは、そのルールの中に身を置いた者にしかわからないことかも知れません。けれども、そのルールは、すべての人に向けて、神様が作ってくださったものです。誰でも受け取ることができるものなのです。委ねて、進んでまいりたいと思います。