2008年8月17日

「宝のあるところに、心もある」 マタイによる福音書6:19〜24

 「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」、富や宝とは目がくらむような金銀財宝だけではなく、それを貯えておいたら、自分の命を保証をしてくれると考えるものです。また、自分の蔵にしまっておき手離したくないもの、これさえあれば大丈夫と安心できるものです。もっと言うと何かことが起こったときに頼りになるもの、信頼できるものと思っているものです。

 主が、あなたの目はどこを向いているのかと言われる時に、あなたは何を頼りにして生きているのかと問われるのです。心を込めて何を信頼しているのか、思いを込めて何を見つめているのか、私たちの生活の中で富としているものは、宝としているものは何なのかと問うのです。このイエス様の仰せられている事は、私たちも良く承知するところです。しかし、本音を言えば、この地上に生きる者として、そのことが空しいと分かっていても、将来の不安、失うことへの恐れがあり、富を積まずにはいられないのです。その事をよくご存知であるはずのイエス様は、私たちに一体何を求めるのでしょうか?天に富を積む、宝を積むとはどう一体どう言う事でしょうか?

 「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない」ヨハネ3:13 天から降って来られたイエス様のほかに天に上ったものはいない、つまり、イエス様のおられるところ、そこが天なのです。「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」言い換えれば、私たちの心のあるところに富も宝もあるのです。何か事が起こったとき、私たちは何を頼りにするのでしょうか?富や宝でしょうか?私たちが一番頼りにするのはイエス様です。そここそが天なのです。イエス様を信頼して生きる生き方が天に宝を積んでいくのです。隣人を愛することも、赦すことも、イエス様の名によって天に宝を積むのです。

 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方を親しんで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」24のです。私たちは富に支配さ富に仕えるのではなく、神に支配され、神に仕えるのです。