2008年8月10日

「平和の祈り」 マタイによる福音書6:5〜15

 先週6日には広島で、9日には長崎で63回目の原爆記念日を迎え、原水爆禁止と非核三原則を刻む平和宣言がなされました。また8日には平和の祭典と呼ばれるオリンピックが北京にて開幕し、同日グルジア軍とロシア軍の武力衝突が起こり、両国元首が開幕式典に臨む中、全面戦争が懸念されました。

 旧約聖書における「平和(シャローム)」は神との正しい関係により与えられるものでした。言い方を変えれば人の行動を問う平和といえます。しかし、福音によればキリスト・イエスは「平和の君」として到来され(イザヤ9:6)、彼の犠牲により平和が到来し(イザヤ53:5)、彼を信じる信仰によって神との平和を得ている(ローマ5:1)と言います。それは、人の内面を問う平和と言うことができます。

 「主の祈り」は直接的な平和の祈りではありません。しかし、それは普通の祈りとはまったく異質で、平和がたやすく手に入るものではないことを予感させます。

「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められ、御国が来ますように、御心が天におけるように地にも行われますように」 祈る者への問いかけは、「あなたは祈るにあたり、神が実在されその名に恥じない方、聖なる方にかかわらずあなたの苦しみの場にもおられる方であることを信じるか」というものです。時折、「苦しい時、主の祈りしかできい」あるいは、「主の祈りさえ出来ない」と言われる方がおられます。そのような人にこそ「主の祈り」があり、矛盾や葛藤を通り、十字架の死を通られた方が共におられるのだと思います。御国が到来し、御心が行われることは同時に私たちにとっては不都合なことです。自分の考えや思いを優先せず、神のご支配に委ねることは困難きわまりないことです。 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」(マタイ10:34)とのイエス様の言葉は神のご支配を認め受け入れることと、本当の平和が私たちの内面をイエス様にくぐらせなければやってこないことを暗示します。人は平和への努力を全力をもって重ねなければなりません。しかし、同時に個人と、他者との関係にある「平和」が神の愛の現れであるキリストによらなければ実現しないことを私たちは心に刻まなければなりません。