2008年8月3日

「あなたのために」 ルカによる福音書22:31〜34

 イエス様が十字架にかかられる前夜、弟子たちと最後の食事をとるとき、パンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」19、食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」20、イエス様は迫り来る死を前にしてパンと杯を差し出し、わたしの命を食べなさい、そして、あなたがたは生きる者となりなさいと仰せられました。

 ところが弟子たちはイエス様の御言葉を理解することなく、「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうかという議論をはじめて行くのです。」24それを聞いていたイエス様はペテロに「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」31と仰せられました。しかし、ペテロは「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」と豪語しました。

 この後、イエス様は十字架にかけられます。すると「わたしは大丈夫だ、わたしが一番です。死ぬ覚悟をしております。」と言った弟子たちはみな、逃げ去って行ったのです。まさに、ふるいにかけられて飛ばされていったのです。人間の頼もしさや勇ましさは、本当の危機の場面では何の役にも立たないことをペテロは体験したのです。イエス様を裏切ったという罪から来る絶望感、深く傷ついた心、そんなペテロを救ったのは裏切られたイエス様です。「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った」32 この方がおられる限り、わたしたちには真の絶望はないのです。

 そしてペテロに「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」32 絶望の淵から立ち直された者は、他の兄弟の悲しみ、孤独、絶望に無関心ではいられないのです。イエス様に罪裁かれ、同時に赦され、十字架の命に預かった者は、ああ良かった、これで平安、感謝で終わりにはならないのです。自分の救いの体験は自分だけの救いに留まらず、隣人の救いのために、赦しを必要としている人のところに、希望の光を求めている人のところへ向かうのです。