2008年7月27日

「私を献げながら」 へブライ人への手紙4:14〜16

 夏真っ盛りの今日この頃、思い出すのは子どもの頃の夏休み。さすがに給食もお休み、お昼は家でご飯を冷たい水で洗った「洗い飯」か「そうめん」でした。たまにはお子様ランチでも食べたいのに「早よう食べなっせ(食べなさい)」母の命令にしぶしぶしたがう私たち兄弟でした。大人になってそれはその時の母のできる限りのご馳走だったことが分かりました。自分の注文通りに与えられる愛が本当の愛ではなく、最善を尽くして私たちの本当の必要を満たしてくださるのが神の愛です。神の愛は時には厳しく見えますが、実は神はいつも私たちに最善を尽くしてくださっているのです。本日の聖書の箇所は神が私たちの仲介者としてイエス様を与えて下さったことと、イエス様を信じる私たち自身が人々の救いのために遣わされていることを教えます。

 「献げる」ことは物が先ではありません。礼拝で行われる「献金」の時に祈り手は「主のご用のためにお用いください。」と祈ります。それは、すべてのものは「主のもの」であることを告白する祈りです。自分が生きているのではなく、神によって造られ、支えられ、生かされていることを感謝する祈りです。私たちがこの世でいただくものは全て神から恵みとして与えられているものです。ですから、私たちが好き勝手にそれを使う時、差別や飢餓、争いによって交わりが壊されてしまいます。神は私たちの生活の必要を与えて下さるばかりでなく、罪の赦しのために御子イエスを与えて下さいました。パウロは言います。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。(ローマ8:32)」仲介者とは「保証人」の意味があります。主イエスは罪ある私たちの連帯保証人となり、その罪を全て負い、神はその負債全部を免除して下さいました。

 遣わされる者は成熟に向って歩んでいく者です。私たちは神の助け無しに人と人の関係の中に進み出て行くことはできません。クリスチャンは信仰と現実との生活にギャップを感じながら生きているかも知れません。しかし、神は実生活を通して私たちが霊的大人となるために全ての助けを惜しみなく与えて下さいます。赦され変えられている存在であることを知って、大胆に救いの神に近づきましょう。