2008年7月20日

「新しい朝とともに」  創世記28:10〜22

 世の中には理不尽なことがたくさんあります。一生懸命頑張っているのに報われなかったり、よかれと思ってやったことが裏目に出たり、本日の聖書の箇所のように母の言いつけに従っただけなのに兄弟に恨まれ逃亡者となったヤコブのような人もいます。 「なのにどうして」・・彼の心の中は不安や孤独、罪悪感や怒りにも満たされていたと思われます。そんな彼の心の乱れを整え、疲れを癒したのは「礼拝」でした。ヤコブが父イサクから一番大切なこととして教えられたことは神を礼拝することでしたが、家を出るまで彼はその大切さを本当には知ることができませんでした。

  「礼拝」は、神との出会いの場です。主なる神は、夢の中で彼の存在に語りかけ、神の約束の上に主体的に立つことを示されました。それは、同時に彼の身に起こっていることを正しく理解することでもありました。主は言われました。「わたしは、あなたに約束したことを果すまで決して見捨てない。」そして、ヤコブは目覚めて言いました。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」ヤコブは、自分の置かれた境遇を支配しておられる神に初めて現実的に出会いました。

  「礼拝」は神に愛されていることへの応答です。ヤコブが夢の中で先端が天まで達する階段(梯子)が地に向って伸びているのを見たように、「救い」は人の意思や努力という地上からではなく神の愛と恵みという上からのものなのです。その天国からの梯子こそキリスト・イエスです。神は、血筋による子どもを子孫とせず、「兄は弟に仕えるであろう」と言う神の言葉によって生まれる子どもを子孫とされました。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:10-14) 神に愛されていることを知ったヤコブは喜びと感謝をもって、神を畏れ、神の言葉に従いました。神はヤコブ(後の名をイスラエル)を約束通り12部族からなる民族の父となさいました。