2008年7月6日

「われ弱くとも」 コリントの信徒への手紙第二:13〜19

 信仰の人、使徒パウロの伝道生活は苦難と試練に満ちたものでした。ギリシャ文化の中心に飛び込んだパウロでしたが、アテネの伝道は失敗と見えました。その原因は、主イエスの復活の出来事を伝えたからのようです。(使徒17:32) しかし、彼は神の知恵は福音にあり、弱く見える神の力は人より強いと言いました。(1コリント1:25)

 普通、福音を伝える人なら、立派で優秀な人がいいと考えます。有名な人、学歴の高い人、才能のある人の方が良いに決っています。パウロも文明の進んだギリシャの都市で、自分がローマの市民権を持つ者、学歴や能力、実力をフルに使って哲学者や宗教家たちと渡り合えたはずです。しかし、パウロはその誇りに頼りませんでした。反対に自分の傷つきやすく、弱く、欠けの多い部分をさらけ出してイエス・キリストの福音を伝える器となろうとしたのです。むしろ、高価さを売りにする器よりも普段使いの安い使いやすい器の方が神の愛を伝える最高の器となり、向いていると彼は考えたのです。「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」(4:5) 自分を主張する高価な器は向いていないようです。

 器にとって大切なことは、誰によって作られたものであるかを知っていることです。「焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限がある。」(ローマ9:21)と、そのどちらもが必要とされているとパウロは言っているのです。見栄えの比較からの開放があります。

 また、その次に器にとって大切なことは、その内に何を入れているかということです。傷つき壊れやすい器、いつかはきっと壊れてしまう器でも、中に入っているものがその器を朽ちないものに変えるのです。「わたしは信じた。それで、わたしは語った。」(4:13) 壊れそうな小さな器、自信のない弱い器でも、中に抱く福音が光を放ち、人の魂を救う偉大な力を持っています。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」(13:4) 人は言うでしょう。「信仰に頼らなければならない弱い人」だと。しかし、八方塞がりになった時、その人の内の並外れて偉大な力が明らかになります。