2008年6月15日

「キリストの自由」 ガラテヤの信徒への手紙5:13〜15

 「英語でしゃべらナイト」という番組で、ゲストに同時通訳の方が出ておられました。同時通訳で難しいことの中に、ジョークがあるそうです。ある国際会議で、「献身(参与)」と「参加」の違いはベーコンエッグみたいなものと言われた時、何を言っているのか解らなかったそうです。結局、豚は自分自身を捧げ、鶏は卵を提供しているに過ぎないということだったようです。

 突然の災害、思いもよらない事故や事件が起こるとき私たちの心には「何故?」との疑問がわきます。人間は幸せでなければならないという原理に立てば、人にとって神の存在も神のなさることも矛盾で理不尽なことばかりです。そんなことなら神を信じるよりも進化論を信じて、生き物は偶然生まれ、進化して人間はできたと考えた方が解りやすく、限られた人生を楽しんで生きる方が得策です。しかし、それでも人の心は存在の意味と目的とを求めるのは何故でしょう。聖書はその疑問にたった一つの答えを与えています。それは、キリスト・イエスです。目に見えない神様ご自身が人となり、人間の理不尽で残酷な仕打ちを無抵抗で受けられたのです。神は、私たちの人生に高みの見物と洒落込んでおられるのでもなく、共にいて私たちの人生に参加しておられるのでもありません。キリストこそ、人の罪と苦しみのただ中に献身された方です。

 パウロが福音をガラテヤ地方の人々に伝えた後、成長しつつあった教会に重大な問題が起こりました。それは、神の律法を守り良い行いをしなければ本当には救われないというものでした。神の無条件の愛によって救われた者たちは互いにあれをしなさい、これをしなさいとは言いません。ただ、互いの生活をキリストの基準に合わせることに努め勧め合います。一人一人の信仰生活や教会の成長のために必要なことは、主の献身に学ぶことです。キリストによって与えられた自由の法則によって自主的、自発的に神の恵みと憐れみによって生きることはどんなことか、自分で考えふるまっていくことです。そして、互いに変わらなければならないことに恐れず向き合っていくことです。キリストは神であることにこだわらず、人となり、十字架の死に至るまで従順でした。