2008年5月25日

「礼拝の場所」 ヨハネによる福音書4:1〜26

 ユダヤを去り、再びガリラヤに向われたイエス様たちは何故か危険なサマリヤを通らなければなりませんでした。しかも、イエス様は長旅で疲れておられました。私たちの人生にもできれば避けて通りたい状況や出来事がありますが、その中にこそ大切な出会いが起こる場合があることを教えられる今日の聖書の箇所です。

 シカルという町中には井戸があり、水汲みは普通暑い日中は行われませんでした。女性はしかも町外れの井戸にやって来たのです。ユダヤ人とサマリヤ人とは民族的にも信仰的にも敵対していた人々でした。しかし、イエス様はよほど喉が渇いていたのか、女性に水を求められました。すると女性はそれを断りながらも、イエス様が与えて下さるという水を逆に求めました。何故なら彼女の霊はイエス様の喉より乾いていたからです。

 「くむものが無い」私たちは神を信じると言いながらも、現実的な助けを神が与えて下さるとは思っていないところがあります。礼拝に集ってもその後の一週間の実生活の中で神が具体的な手段で私の問題に答えてくださるはずがないと思ってはいないでしょうか?「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(ピリピ4:13)と唱えていても本当にそう信じているでしょうか?人の不安は自分の知恵と力によって自分を変えようとしたり、問題を解決しようとするところから始まります。神の全能さを信じるとは、人には不可能なことでも神には可能であることを信じることです。主イエスに私たちはもっと期待して良いのです。

 「井戸は深い」人は皆何かしら心の悩みや傷があります。そして、それは中々他人には解ってもらえません。また、罪とその意識の深さも人それぞれです。しかし、主イエスはどんな深い罪も赦すことのできる方、慰めと平安を与えることのできる唯一の主です。

 主イエスの父なる神を神とし、主イエスの救いを信じ、心を合わせて霊なる神に出会う場こそ新しい礼拝の場所です。シカルの人々はユダヤ人に先駆けて本当の主を信じて救われました。