2008年5月18日

「慰めと励ましの日」 マルコによる福音書2:23〜28
 
 イエス様以前の安息日:数年前から手帳やカレンダーの週の初めが月曜日になっているものが出ています。現代の生活のリズムからすると納得するものです。人間、一週間働いたらその疲れを取るために休みを取るのは当然のことです。創世記にある、天地創造の時、神は六日間で世界を創造され七日目は休まれたとあります。十戒の第4戒「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」(出エジ20:8)を根拠としユダヤの人々は忠実に厳しくこの戒めを守りました。神の前に落ち度なく、責められるところの無い者となるためです。ユダヤ人にとって安息日は金曜の日没に始まり土曜日の日没に終わります。戒めを守り終えてようやく安堵し一週間が終わるのです。そして、また正しく生きる一週間が始まります。 

 イエス様以後の安息日:イエス様は十字架にかかり数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄され、復活の日をもって新しく生きる日を定めて下さいました。教会が一週間の初めの日を「主日」「聖日」と呼ぶのは、一週の初めの日を「キリストにあって聖とされた日」として喜び祝うためです。それは、キリストにあって、罪の赦しと慰めを受け、恵みによって希望をもって生きるためです。主イエスは安息日の主でもあり、「礼拝」の主です。主の日は、イエス様の罪の贖いの業と復活を互いに集まることによって再確認し、慰めと癒しとをいただき、互いに愛をもって赦し合う日々の生活の中に派遣される日でもあります。

 主の日の安息:「安息日に歩き回ることをやめわたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ安息日を喜びの日と呼び主の聖日を尊ぶべき日と呼びこれを尊び、旅をするのをやめしたいことをし続けず、取り引きを慎むならそのとき、あなたは主を喜びとする。」(イザヤ58:13) 私たちが自分自身のありのままを捧げ、自分の思いに固執せず、神を心の中心、拠り所とし寄り頼む時、私たちの魂に安息が与えられると聖書は約束しています。弱い私の心を新たにし、主の日に集まることができるよう祈ります。