2008年5月4日

「新しい関係」 マルコによる福音書2章18節〜22節

 私の父は結構新しもの好きで、洗濯機とかテレビとか当時早い時期に買い求めていました。その大儀名分は、母が楽になるからとか家族で楽しめるからというものでしたが、本当は単に新しもの好きという理由だったのだと思います。おかげで、父に似たのか私も新しもの好きです。しかし、私がキリスト教に出会い、信仰を持ったのは決して日本では珍しい宗教だったからとか教えに共感し、その考え方に新しさを感じたからではありませんでした。むしろ、新しいというより、本物だと思いました。自分の抱えた問題(過去の傷や罪悪感、将来への不安)の解決のために、自分の内面に目を向けたり、問題そのものに執着することで問題は解決しないと知らされたことによります。聖書は私たちの魂を主に向けること、聖書のことばに向うことを勧めます。自分自身や問題そのものを探求しても自分を救い、問題を解決することはできないのです。

 信仰の父、アブラハムから始まるユダヤ教と主なる神との関係は2000年の時を経て古びてしまっていました。神様ご自身が古びてしまわれたのではなく、信じる者たちの心が、信仰心が形にとらわれ固くなってしまっていたのです。マルコは、イエス様が何者でイエス様が何をなさったかだけを書きたくてこの福音書を書いたと思われます。系図や誕生の次第については無頓着です。信仰の目を向けるものが戒律や儀式ではなく、魂を罪から救って下さるイエス様、私たちの根源的な問題を解決して下さるイエス様ご自身に目を向けることをマルコ福音書を含めた新約聖書に納められた文書は語っています。

 イエス様の到来から2000年の時を経て、途中、宗教改革もありましたが、教会や教会に集う私達の信仰は古びくたびれ、擦り切れていないでしょうか?古い服に新しい布切れで継ぎ当てるなら服は破れ、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるなら新しい酒の醗酵に耐え切れず破れてしまうとは、福音と福音の原理とを私たちの心と生活の中心に置かなければ問題は一層やっかいなものになることを示唆しています。イエス様が教えられた第一の掟とは「心を尽くし、精神を尽くし思いを尽くし、力を尽くして神を愛すること」です。第二がその具体例「隣人を自分のように愛すること」(12:29)です。イエス様の十字架の愛を信じるとき、自分に執着しなくても良いことが分かり始めます。新しい皮袋とは、福音によって与えられた新しい、神との関係です。礼拝も祈りも奉仕も主イエスにある新しい関係を知らなければ、私たちは依然として古い皮袋に過ぎない者です。自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける捧げものとしたいものです。