2008年3月23日

「死から命へ」 ルカによる福音書23:44〜24:12

 イースター、おめでとうございます。イースターは私たちにとってクリスマス以上の喜びの日です。それは、福音が信じる者すべてに罪の赦しによる救いを得させる(ルカ1:77、ローマ1:16)力となった日だからです。イエス様の十字架の死と葬り、そして復活の出来事は、パウロによれば福音そのものです。(1コリント15:3-5) パウロは復活のキリストを信じる者は圧倒的な勝利者となると言い切ります。(ローマ8:37)

 福音は事実によって裏付けられます。第一に、キリストがわたしたちの罪のために死んだことです。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」(ローマ3:25) 「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(1ペトロ2:22)。十字架には見せしめの意味があります。清い方が極悪な者として私の罪の身代わりとして世に曝(サラ)されたのです。自分の罪が暴かれ、白昼人々の前にさらされることを私たちは想像できるでしょうか。イエスは黙して立たれました。

 第二に、キリストは葬られたことです。それは、罪が完全に裁かれたことを意味します。罪が徹底的に罰せられたということです。キリストにあって神は人の罪を二度と思い出さないと心に決められたということです。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐいあなたの罪を思い出さないことにする。」(イザヤ43:25) また、私たちはキリストにある罪の滅びを信じることにより、恥じたり罪悪感にさいなまれなくとも良くなったということです。「恐れるな、もはや恥を受けることはないから。うろたえるな、もはや辱められることはないから。若いときの恥を忘れよ。やもめのときの屈辱を再び思い出すな。」(イザヤ54:4、38:17)

 第三に、事実キリストは復活されたことです。失望と傷心のうちに墓に来た婦人たちが見たものはあるはずのイエスの遺体でした。信仰は、聞くことから始まり、聞いていたのに有り得ない事実を信じる(ローマ10:8-13)ことから始まります。私は、人の本当の罪とは本来自覚できないものだと思います。神はその絶望的な罪という闇を裁きの光ではなく、キリストの十字架の愛の光で照らし、「死」という罪の報酬を永遠の命の賜物に変えて下さいました。(6:23)