2008年3月2日

「身代わりの死、贖われた命」 イザヤ書53:1〜5

 昨年12月に放映されたキリスト教番組「ハーベストタイム・ワールドニュース」の中で、インドの森林地帯で遊牧生活を送るバギリ族への伝道の働きが紹介されていました。解説の中川健一先生が、バギリ族が主イエスの福音を受け入れたのは、文化的接点がうまく働いた(彼らはオカルト的な信仰を持ち、いけにえの血と、醗酵していないパンを食べる風習があったことから、キリストの晩餐式をそれに当てはめて主の贖いを伝えた)ことと、彼らの文化的スタイルを礼拝に取り入れたことが伝道の助けになったことを上げておられました。

 私たちが人に何かを伝える時、共通点を見つけることによってうまく行くことがあります。しかし逆に、皆持っているのに伝わりにくいものがあります。それは、痛みと苦しみです。私の母の口癖に「わが身の痛さは世界一」というのがあります。人にわかってもらえればどんなにか楽になるのに、中々わかってもらえず苦しむことがあります。理解できない苦しみや痛み、不条理で理不尽な苦しみほど私たちを悩ますものはありません。小手先の理由付けなど、苦しんでいる人にとっては何の役にも立たないどころか、痛みが増すばかりです。

 さて、今日の聖書の箇所に一人の苦しみを負った人の詩が出て来ます。「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。・・この人は主の前に育った。見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている。・・彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった・・。」それは、預言者イザヤを通して告げられた来るべき救い主の姿だと言われています。創造主なる神が造られた存在である私たち人間への救いの知らせの接点として「痛み」「苦しみ」を選ばれたことには深い意味があると私は思います。「神が居るのなら何故こんな苦しみがあるのか」という疑念ほど私たちを神から遠ざけるものは無いと思います。また、人の心を蝕むものに「生きる空しさ」があります。

 復活、それは苦しみを通ってもたらされた魂の勝利の言葉です。痛みや苦しみに理屈ではない意味と希望とを与え、乗り越える力を与えてくれる言葉です。神が私たちの心身にわたる痛みや苦しみを接点とし、生命の限界を超えた永遠の命を与えるために準備されたもの、それがイエスの十字架と復活の福音です。言葉だけでは伝わらない福音を生身の人間同士、接点を求めながら行動して行く、それが伝道なのかも知れません。主のご受難を覚える季節です。