2008年2月17日

「シロアムにて」 ヨハネによる福音書9:1〜12

 青葉教会ではビジョンとして地域と共にある教会となることを目指していますが、それはゴールではなく姿勢のことです。その内容の一つは「地域のオアシスとなる」ことです。オアシスと言えば、砂漠を旅する人が命をつなぐ泉を連想します。そして、それは人に休息と平安とを与える場所ということもできます。教会が文字通り、地域の心の休息場となれば良いと願うばかりです。しかし、魂のレベルから考えてみると、オアシスとは癒しと救いの場ということではないかと私は思います。生まれつきの盲人に起きた出来事は私たちの魂に安息を与えてくれる出来事だとも言えます。

 イエス様の宣教は次第に対立を起こさせて行きます。それは、イエスが誰なのかという議論でした。イエス様の教えと業は人々の間でも対立を生み、特にイエス様の言葉は宗教指導者たちとの間に、深刻な問題を引き起こしました。ヨハネによると、盲人の癒しに続く、ラザロの死よりの復活の業はイエス殺害へのきっかけとなって行きます(11:53)。

 弟子達は生まれつきの盲人のことでイエス様に質問しました。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」2000年後の今でも聞かれる質問であり、障碍を持った人とその家族に重荷を負わせる言葉です。いわゆる因果応報の考え方です。結果には何らかの原因があり、その結果を理解するための知恵とも言うことができます。しかし、イエス様は重荷を負った人たちにとっては砂漠のような考え方にまったく新しいビジョンを与えられました。「(そうではなく)神の業がこの人に現れるためである。」よく、問題が起きた時「何故どうして自分にこんなことが」と嘆くより「何のために自分にこのことが」と考える方が良いと言います。しかし、そこには試練の程度の問題があります。厳しい試練には通用しない言葉でしょう。世の中には言葉では説明しがたい現実があると私は思います。

 イエス様は盲人の目に、唾で土をこねたものを塗って言われました。「シロアムの池に行って洗いなさい。」目が見えることを願ってもいなかった盲人、弟子達の疑問の例えにされてしまった盲人、既に目が見えることなどあきらめていた盲人にイエスは触れ、行動を求められたのです。今は目が見えるようになった人は言いました。「そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」

 教会は心のオアシスであり、魂をこの世の言い伝えの束縛から解放し、イエスにあって罪から救われていることを告げる憩いの場です。イエスが私たちを救うことのできる方であることを業そのものによって信じる(14:11)場所です。