2008年2月10日

「破れ口に立って」 エゼキエル書13:1〜16

 神の民イスラエル人たちは父祖アブラハムへの神の約束の通り大きな国へと成長を遂げました。しかし、その国造りは主なる神への信頼を基礎とはしていませんでした。案の定彼らは隣国や台頭する国々から侵略を受け、奴隷となっていきました。バビロニアに支配され王国から連れて行かれた預言者エゼキエルは、イスラエルの罪を自覚させ、国の再建への希望を持つ前に悔い改める必要があることを伝えました。エゼキエルを通して神は神と民との間に平和を実現する人を求められたのです。

 明日11日は祝日で、建国記念の日となっています。建国をしのび、国を愛する心を養う日として1966年に政令で定められました。しかし、中には記念日の建前とは裏腹に、それが国民の自由を束縛する政治に利用されていくことを恐れる人々もいます。多くのキリスト教会では、歴史をふまえ、その日を平和を願い考える日としています。それは、平和が見せかけのものとならず本当の平和がこの地に実現することを願い意識して設けられた日です。

 さて、平和とは何でしょう?戦争もなく争いもないことでしょうか?それもありますが、第一に平和は状態ではなく関係性の問題です。良い状態にあることが平和ではなく、正しい関係にあることが平和の条件ではないでしょうか?それは裁き合いではなく赦し合いの関係です。裁くことより多くのエネルギーと努力を必要とします。それは、何でも我慢して受け入れることではないからです。嘘や真実でないことに対して聞く耳を持ち、真実を語ることに忍耐をもって取り組むことを言うと私は思います。神はエゼキエルや他の正しい預言者を通して言葉を尽くして民が主なる神に立ち返るよう語られましたが民は聞きませんでした。後に神は主イエスを送り、イエスは言葉と行いとをもって忍耐し平和の道を説き、十字架をもって神と人との間に平和を勝ち取られました。

 第二に平和は自然には存在しないということです。イスラエルの罪は、彼らに不安をもたらしました。偽りの預言者たちは民の不安を正しく取り扱わず、目先の平和で欺きました。「不安」は私たち人間の魂の安全装置です。本当の平安を識別するために与えられた知恵だと私は思います。神はまず私たち一人ひとりとイエス・キリストにある愛と恵みによって平和の関係を結び、他者との関係の破れ口に立つものに私たちを造り変えることを望んでおられると私は思います。神の愛がなければ誰も関係の破れ口に立てません。だから、私たちは平和の主イエスを呼び求めるのです。平和を実現する人となりたいものです。