2008年1月27日

「十字架による和解」 エフェソ2:11〜22

 「実にキリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」14−16

 律法とは、人間が正しく生きる道を定められたものです。(偶像を神としてはならない、殺してはならない、盗んではならない、人のものを欲してはならない、など・・・モーセの十戒)そして、この律法を要約すると「神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい」マタイ22:37となりますが、なぜ、この律法が廃棄されたのでしょうか。そこには二つの原因があります。

@ ユダヤ人は、律法が与えられたのは、自分たちが特別に選ばれた民族だと考えたこと。選ばれている、選ばれていない、愛されている、愛されていない、彼らの判断基準はいつもそこにあり、そこから差別がはじまっています。

A 与えられた律法をもって他人を裁くこと。なぜ、あなたは神を愛さないのか、なぜ、隣人を愛さないのかと言って、相手を責め、裁くのです。

 ここに、ユダヤ人と異邦人の大きな壁が出来、更に敵意がうまれたのです。しかし、イエス様が来られ、十字架を通して敵意を滅ぼして下さりました。教会ではユダヤ人も異邦人も救われ、今まで敵対していた二つのものが一つとなり、また、家族として、共に神を賛美する者になっていったのです。

 十字架は弱さ、貧しさの象徴でもあります。しかし、その弱さを通して、私たちのかたくなな心が打ち砕かれ、癒されたのです。世の中の方程式では固く強いものは、さらなる固くて強いものを持って打ち砕きます。しかし、神の方程式は弱さを持って強さを打ち砕かれるのです。イエスは弱いから人間の手によって十字架につけられてしまったと言います。しかし、あの十字架の上から流された血によって、私の罪が赦され、神と和解することが出来たのです。十字架の弱さは強くて固い大きな壁をも打ち砕かれるのです。

 今、私たちが他者との間に壁や敵意があるならば、どこかに“私は強い、私は正しい”という、自分を絶対化した固い心があるのではないでしょうか。“あなたのここが悪い、あなたのここが駄目だ”と責めるのではなく、私たちが十字架の弱さによって救われ、和解したように、私たちもキリストの十字架をともに担いながら弱さを誇って生きましょう。