2008年1月20日

「憧(あこが)れ」 ルカによる福音書10:38〜42

 ルカは使徒パウロに最後まで同行した人でした(2テモテ4:11)。彼は、パウロのイエス・キリストにある福音と救いの原理について誰よりも良く理解していたと考えられます。その原理と実践についてルカは独自のエピソードを用いて生き生きと描きました。

 エルサレムに上るほどにイエス様に敵対する人々、特に宗教指導者たちの反発や妨害は激しくなって行きます。そのような中、イエス様は律法の専門家からの試みを受けられます。「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか?」律法学者はその答えが分っていました。律法を守ることです。しかし、イエス様の答えは意外でした。「それを実行しなさい。」その意味を解らずにいた律法学者にイエス様は「善きサマリア人のたとえ」を語られました。律法の実行とは、心、精神、力、思い、を尽くして主なる神を愛し、隣人を自分のように愛するということです。それは隣人を深く憐れむことだとイエスは言われます。憐れみ(へブル語でラハミーム)は「子宮」を意味します。それは、母親の子供に対する愛情や同じ胎から出た兄弟同士の愛情を示します。しかし、それを超えてイエス様は肉親でない人々に肉親である以上の憐れみを持つことが永遠の命への道であることを教えられました。

 マルタとマリアのエピソードはまた、私たちに奉仕の心を教えてくれます。良い行いも心の優先順位を間違えてしまうと思いもよらない結果に終わってしまいます。「あなたのためを思って」やっていることが、余計なお世話になってしまうことも現実にはあります。主なる神を愛することは、神が求めておられることを行うことです。マルタのもてなしの心は決して間違ってはいません。しかし、奉仕が義務や重荷となるとき、その気持は乱されてしまいます。イエス様の憐れみはそのようなマルタの心に向います。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」自分が心の中では本当にしたかったことを働き者のマルタは選べなかったのです。彼女もイエス様の足元で、その言葉を聞きたかったのです。素直な妹が羨ましくも憧れでもあったかも知れません。イエス様はマルタを責めてはおられません。でも、この世の気遣いが本当に大切なものを見えなくしてしまうことの危うさをイエス様はマルタに教えておられるのです。私たちには日々やらなければならない多くのことがあります。しかし、まず主の前に静まり、主の愛を信じて一日を始めることが出来るなら、その働きは喜びと感謝で終わることでしょう。朝まだ暗い内に起きて人里離れて祈って一日を始められたイエス様に私は憧れます。