2008年1月13日

「共に喜び、共に泣く人生」 ローマ書12:9〜21

 最近、人間関係のもつれから悲惨な事件が日々おきています。私たちは関わりを持たずに生きることはできません。「できれば、すべてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」18とあるように、共に喜び、共に泣く人生を歩めたら何と幸いなことでしょう。パウロは人間関係は愛によって築かれなければならないこと、そして、その愛が日常生活の中で生かされなければならないことを語っています。

 当時のローマは世界の中心地でしたので、いろいろな地域から、たくさんの人々が集まっていました。そして、教会にもさまざまな人たちがいました。もともとの信徒、他の町や国から来たキリスト者、ローマで成功を収めた人、住むところのない貧しい人まで、価値観の全然違う人々が一つの教会に集っていたのです。この教会が一つの体として連携していくには、心と心が一つにならなければなりません。では何によって一つとなるのか、それはイエス・キリストの愛によって繋がり一つとなっていくことです。そして、その繋がりは教会のみならず、人間関係全てがこのキリストの愛によって築かれなければいけないのです。「神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」ヨハネ手紙(一)4:11 そして、その関係は教会の中だけではなく、隣人にも及ぶのです。

 隣人とは誰か?と言う問いには「善きサマリヤ人」ルカ10:25−37 でも、私たちは、自分にとって都合の悪い人を愛せない、そんな弱さを持っています。また、自分の思いや自分の力では隣人を愛していく事が出来ないのです。しかし、神の恵みの中で生きる者はどんなに小さな者にでも「尊敬を持って互いに相手を優れた者と思い」10「希望を持って喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」12と言われています。それでは何に希望を持つのか、それは神様です。自分の思いとは反対に苦しい時もありますが、耐えること、祈ることです。 

 この祈りが、私たちを喜びに向かわせ、耐える力を与え、慰め、励まして下さるのです。また「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」とあるように、神に委ねることで必ず解決してくださります。なぜ、あの人を愛さなければならないのか、その思いも神が取り去ってくださり、神が私たちを愛されたように、私たちも隣人を愛していくこと「敵が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませよ」とあるように、私たちの生活は毎日このように神様に対しても、家族や隣人に対しても喜ぶ人と共に喜び。泣く人と共に泣く人生でありたい、共に喜ぶとき、その喜びは倍になり、共に泣くとき、その悲しみは半分になります。イエス様は喜びもの時も、悲しみの時も私と共にいてくださるのです。