2008年1月6日

「あなたの拝む神」 創世記22:1〜14

 何もない一年というのはありません。私たちは毎年過ぎ去った年を振り返り、悔い改め、そして感謝し何が起こるか分からない新しい年に臨みます。今年一年、主なる神が私たちに先立って進んで下さることを願います。

 ユダヤ人の父、アブラハムは主なる神の招きに応え約束の地へ向いました。「生まれ故郷父の家を離れて」彼は未知の世界に踏み出したのです。故郷には様々な思い出があり家族や友人もいたと思われます。しかし、彼は主の言葉に信頼し、過去を清算しまだ見ぬ地へ向いました。信仰とは未知の経験に向って全知全能の神を信じて踏み出すことと言えます。しかも、信仰はこの世の幸せな生活を保証し苦労からの開放を約束しません。正にアブラハムの道中は平坦な道のりではありませんでした。飢饉との遭遇、甥ロトとのいさかい、ソドムの町の滅亡、そして妻サラの不妊と、神の約束とは程遠い現実が彼の前に広がっていました。しかし、彼は神の約束を信じて歩みました。

 本日の聖書の箇所は「これらのことの後で」という言葉で始まります。過去から旅立ち、現在の生活に耐えて来たアブラハムの試練とそればかりではなく約束の子イサクが与えられ色々あった後でという意味です。しかし、アブラハムにとって希望の未来であった息子を主なる神は取り上げようとされたのです。それを読むと私はアブラハムが拝む神は何と無情な神なのかと思います。幸せの極みから絶望へと突き落とすひどい神様だと思えてしまいます。

 しかし、神は人類の救いのご計画の初めに、信仰の父となるアブラハムが未来を神の御手に委ね今を生きる者であるかを試されたのです。私たちにとっての未来とは目の前に広がる未知の世界です。しかし、アブラハムにとっての未来とは背後にあり、彼は過去の主の業を目の前に見ています。人は過去を見ることはできても未来は見ることが許されていません。彼はひとり子を奉げるという試練の中で未来を知り備えをしておられる方に信頼しました。その時、イサクを屠ろうとする時まで見えなかった身代わりの犠牲の雄羊が見えたのです。

 アブラハムはその試練と恵みの場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けました。主なる神は彼の信仰を試す前に既に恵みを与えてくださっていたのです。長血の女や盲目の人、重い皮膚病の人に対しイエスは言われました。「あなたの信仰があなたを救ったのだ」それは、私たちに救いの分があるという意味ではありません。神が私たちを先に愛して下さったことから救いは始まっているということです。新年という未来を主に委ねて踏み出しましょう。