2007年12月16日

「あなたはどこにいるのか」 ルカによる福音書17:11〜19

 イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を讃美するために戻って来た者はいないのか。」17、18

 当時、重い皮膚病(口語訳、らい病)を患っている人は、汚れた者として人々から見放され、拒絶され、人格も認められず、人々から隔離された生活をさせられていました。そんな彼らのもとにイエス様が来られました。彼らは声を張り上げて、「イエス様、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。13 そして「イエス様」と叫ぶ彼ら全員を癒されたのです。神の愛はすべての人に平等に注がれるのです。

 しかし、癒された十人のうち、イエス様のもとに戻って感謝したのは一人だけで、残りの九人は戻って来ませんでした。何故でしょう。感謝するために戻ってきた一人はサマリヤ人で、戻って来なかった9人はユダヤ人です。ユダヤ人から見たらサマリヤ人は真実なる神に従わず、律法も守らない者で大嫌いな人々でした。故にサマリヤ人との交際は一切禁止されていたました。私たちユダヤ人は神から選ばれた民で、特別な民、神様の祝福を受けるに相応しい者、だから癒されても、それは当たり前で当然の事と思っていました。

 逆にサマリヤ人は、自分は神から祝福を受けられるような者ではなく、そんな価値もないと思っていました。しかし、イエス様はそんな汚れた私のものに来てくださり、憐れみ愛してくださったのです。その恵を体験したからこそ、彼は感謝と賛美をするために、イエス様のもとに戻って来たのです。

 しかし、神様は自分の元に戻らなかった9人に対して、あのような者たちの事はもう放って置こうとは思いません。「ほかの9人はどこにいるのか」と探し続けるのです。「あなたがたの中に100匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、99匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探しまわらないだろうか」15:4 とあるように、神は今も「あなたはどこにいるのか」と探しておられるのです。

 神の恵は、わたしたちが何かをしたから、その報いとして与えられるものではありません。神様はただ一方的に、私たちを愛し、祝福したいと願って、イエス様を私たちのもとに遣わしてくださったのです。この愛に条件は何もありません。私たちが存在するだけで神様から愛される価値があるのです。それだけで十分なのです。