2007年12月2日

「主を待ち望む」 マタイによる福音書1:18〜25

 家系を重んじるユダヤ社会の中でマタイは福音の初めに、イスラエルの民が長年待ち望んだ血統書付きのメシアこそイエス・キリストであることを書き記しました。血統を重んじるのは世の常です。ならば救世主の血統であれば尚更のこと清く正しいものでなければなりません。しかし、そこに連なる名前は決して誇れるものばかりではありませんでした。ヨハネは救い主イエスを「言」と呼び、その名を信じる人々には神の子となる資格を与え、「それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである」と証し、どんな人でも福音に招かれていると言いました。

 「インマヌエル」(神がわれらと共におられる)という言葉が登場するのは、エルサレムが存亡の危機に立たされ、自らの力ではどうすることもできない状況に遭遇した時のことです。主はイザヤを通してユダの王、アハズに語られました。「落ち着いて静かにしていなさい。恐れることはない。」(イザヤ7:4) イザヤは、あなたの神である主を信頼するならばあなたの敵は燃え残ってくすぶる切り株に過ぎない(4節)、しかし神は今は切り倒されているように見える切り株、エッサイの株から新芽のような救い主が生まれ出る(11:1)と言うのです。

 イエスさまの誕生の次第はマリアとヨセフを窮地に陥らせるものでした。また、心の優しいヨセフの配慮は、預言者に語られたことの実現の障害となりうるものでした。しかし、箴言に「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。(19:21)」とあるように神のご計画は人の思いを超えて進められました。ヨセフがするべきことはを「恐れず」妻マリアを「迎え入れ」、その子に「イエス(救い)」という名を付けることでした。

 神様は救世主(メシア)を待ち望んだイスラエルの人々の最後の人としてマリアとヨセフを選ばれました。主イエス・キリストこそ「ご自分の民を罪から救う」方であり、神の愛が形となった方でした。今、私達がすることは救い主を「待ち望む」ことから、主イエス・キリストを「恐れず」心の内に「迎え入れる」ことに変わりました。主なる神を捨てたイスラエルの民を神は彼等を見捨てることなく、共にいる約束を奴隷の地エジプトから導き出したヨシュアと交わしたようにキリストにあって再び結んでくださいました。「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」(ヨシュア1:5 )