2007年11月25日

「勘違いしないで」 使徒言行録15:36〜41

 今日の聖書テキストは、パウロの第二回伝道旅行に出発しようとした時のトラブルです。それはパウロとバルナバが「マルコと呼ばれるヨハネも連れて」(37)行くかどうかという考え方の違いから起きています。どうして問題になったかと言うと、第一回伝道旅行はマルコも一緒でしたが、どのような理由であったのか明らかではありませんが、途中「一行とわかれてエルサレムに帰ってしまった」のでした。彼のこのような行動に対して、パウロは今回の同道を認めないとし、一方、バルナバは連れて行きたいと主張したのです。この両者の違いは、埋めることの出来ない違いであったようです。聖書はこのように記しています。「そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって・・」(39)と。

 マルコに対するパウロの厳しい対応と、バルナバの寛大さのどちらを是とするか、軍配を上げるか? 注解書を調べてみたのです。その何冊かは、比較的パウロに好意的でした。その理由として、この後のパウロの伝道は祝されたが、バルナバについての記事は、この後は載せられていないというのです。然し、私はなんとなく納得できなかったのです。なぜかと言うと、バルナバとマルコとは親戚関係にあったとしても、バルナバのマルコに対する寛容さがあったからこそ、その立ち直りによって、その後の彼の存在と働きがあったのではないか?加えて「マルコによる福音書」の現存も、バルナバの寛容さによるのだ、と。

 そんな思い巡らしと黙想の中で、この聖書テキストから教えられたことは、@マルコに対する対応について、パウロが正しいかバルナバが正しいかは、私が考え、判断する領域ではないということ。

Aそれよりも、意見が違って激しく衝突し、ついには、別行動を取らざるをえなかったほどの二人を、同じように、尊い福音を持ち行く者として信頼をもって召してくださった神の愛の大きさに気づかされたのです。

 神の包み込むような大きく深く、そして広い愛・憐れみ・赦し・助け・力・導きなどを、私たちは、小さく見すぎるという勘違いをしてはいないでしょうか。感慨を正す鍵は、《信仰》にあります。